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【異論】
併用なら瀬戸大橋を
日本土木学会に「本州四国連絡橋技術調査委員会」が設置された昭和三十七年の七月、河野一郎が建設相に就任した。本四架橋に選ばれるのはどのルートか。関係府県市が注視する中、架橋問題を派手な演出で政治の表舞台に押し上げたのが河野だった。
東京オリンピックが開かれる四カ月前の三十九年六月。神戸港を出た関西汽船「くれない丸」の船上で、「瀬戸内総合開発懇談会」が開かれた。河野を囲む瀬戸内沿岸の知事や市長らの関心は、もちろん本四架橋だった。
建設相就任以来、明石−鳴門ルートに積極姿勢を表明していた河野は、駄目を押すようにぶち上げた。
「この河野の目が黒いうちは明石−鳴門でいく」
岡山、香川両県が受けたショックは大きかった。現職で急逝した岡山県知事の三木行治の後を受け、三十九年十一月に就任した加藤武徳は徐々に反転攻勢に出た。
ある日、高知県庁に知事の溝渕増巳を訪ねた加藤は「オブザーバーでいいからわが(児島−坂出)ルートに参加を」と要請したが、溝渕は「明石−鳴門一本でいく」と譲らなかった。
四十年七月に河野が急死。四十一年三月には土木学会調査委の中間報告が、四十二年五月には最終報告書が発表された。四十三年には建設、運輸両省が本四架橋の工費・工期の調査結果を出したが、架橋をめぐる状況は混迷の度を増すばかりだった。
土木学会の最終報告書は「三ルートとも建設は可能」としたが、技術的に問題が少ないのは明らかに児島−坂出、尾道−今治ルートだった。しかし大物政治家を巻き込んだし烈な誘致合戦のさなか、学者の報告書や官僚の調査結果で着工の優先順位が明示できるはずもなく、“我県引橋”の争いは過熱する一方だった。
■行政主導を反省
こうした中、鉄道併用橋による明石−鳴門ルートを「県是」とする本県でも公然と異論が噴出した。県議会では社会党(当時)の論客、栗生茂也や土居正実らが論陣を張った。
四十二年四月、県議会議員に初当選した大村之彦(73)=元国鉄労働組合高知支部委員長=は、デビュー戦となった六月定例会で質問に立った。
大村は、土木学会の最終報告書のデータを基に「鉄道併用橋は否定しないが、併用橋ならむしろ国鉄の基地がある高松、岡山を結ぶ児島−坂出ルートが優れている」と迫った。
元県議の大村は言う。
「淡路島内の鉄道は全く具体化していなかった。一方、大阪以西の山陽新幹線計画が進み、土讃線もスピードアップを図る時期だった。県はそうした状況を頭に入れず『東回りが近い』と言い続けていた。橋の主塔間のスパン、潮流、水深、工事費など、いずれも明石−鳴門より児島−坂出ルートの方が現実的だった」
しかし、溝渕の知事答弁は一貫して「従来方針通り」。自民党県議団も四国循環鉄道、明石−鳴門ルートで結束していた。ただそうした関係者の熱意とは裏腹に、県民の目は冷めていた。
四十一年四月、企画管理部開発課長になった高橋章夫(77)=高知市曙町一丁目=は「熱心だったのは県であり議会であって、経済界はさほどではなかったと思う」と振り返る。
高橋が課長になった翌日の四月二日、県庁正庁ホールで「明石鳴門鉄道道路併設橋架設促進高知県大会」が開かれた。同課の担当者として大会を取り仕切った安部幸夫(72)=高知市本宮町=は言う。
「行政主導で進めてきたことへの反省があった。総決起大会を機に、明石−鳴門ルートで県民の心をひとつにしたかった」
(文中敬称略)
【写真】河野一郎建設相(前列右から4人目)を囲み、地図に見入る各県知事、市長ら(昭和39年6月7日、「くれない丸」船上)
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