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【同床異夢】
鉄道併用めぐり激論
安保騒乱で幕を開けた昭和三十五年。岸内閣の後を受けた池田内閣が所得倍増計画を打ち出し、日本は高度経済成長期に入ろうとしていた。この年の四月に制定された四国地方総合開発特別法に対応し、高知県知事の溝渕増巳は庁内に開発総室を設置。本四架橋対策の具体的な検討を始めた。
二カ月後の六月二日。徳島県議会の正副議長ら七人が、明石−鳴門ルート(後に神戸−鳴門ルートと呼ぶ)への協力要請のため高知県議会を訪れた。
「徳島としては道路・鉄道併用橋を基本に運動を進めたい。早期実現のため近く結成する促進協議会に加わってほしい」
前年、建設省が初めて本四架橋調査費五百万円を予算化し、瀬戸内各県が誘致に動きだしていた。鉄道併用橋の建設促進を決議し、歴史的に徳島県と友好関係にある本県に異論はなかった。
六月十五日、徳島県庁に徳島、兵庫、大阪、高知、愛媛の五府県と神戸市の首長、議長が集まり、「本土・淡路・四国連絡橋架設促進協議会」、略称「本淡四協議会」が結成された。(後に愛媛県が離脱、三十八年に大阪市が加わる)
しかし、旧内務省出身の技術者だった神戸市長の原口忠次郎の持論は一貫して「道路単独橋」だった。
三十六年二月、神戸市で開かれた本淡四協議会の席上で「鉄道併用橋か、道路単独橋か」をめぐって激論が交わされた。衆院議員に当選した仮谷忠男の後を受け、県議会議長に就任した田村良平(故人、元自民党衆院議員)が国への陳情文に「鉄道および道路」を明記するよう強く求めた。結局、「運動は併用橋で進める」との妥協案が示され、「鉄道」の二文字は入らなかった。
■思惑の違い
後に溝渕は回顧録「県政二十年」(高知新聞社刊)でこう述懐している。
「(神戸市の)原口市長も徳島の原菊太郎知事も口では適当なことを言いながら、鉄道併用橋をいざ決議するとなると、逃げを打ち続けた。『鉄道に固執していると、完成が遅れる。お互い目の黒いうちの完成がおぼつかない』というのが本音であった」
原は四国電力と交渉して資金を借り、有料道路方式で小鳴門橋(三十六年七月開通)を架けたアイデア知事。原の秘書を長く務め、“原信奉者”を自任する岡本賢次(76)=徳島県建設業協会専務理事=は言う。
「原さんも併用橋で通したし、(後任知事の)武市(恭信)さんも当初から併用橋でした。高知さんに離れられると困るというのも事実だったが、経済人で野人だった原さん一流の“腹芸”が、溝渕さんにそう思わせたのかも知れない」
鉄道併用橋か、道路単独橋か。思惑を超えて本淡四協議会を結束させていたのは、橋を架けたい一念だった。鉄道併用橋をめぐる考えの違いが浮き彫りになる中で、高知県議会は三十七年の二月定例会の建設電力委員会で、十月には議員総会で「従来通り併用橋の促進を図る」ことを確認する。
十一月二十日には、本県選出の国会議員や経済界の代表らが東京・赤坂のプリンスホテルに集まり、「明石・鳴門併設橋促進高知県協議会」を結成。会長に元首相の吉田茂を選ぶ。
会長就任を要請する溝渕に随行し、大磯(神奈川県)の吉田邸を訪ねた大町行治(75)=元県出納長=は、吉田の言葉を今もはっきりと覚えている。
「高知県はまだ鉄道、鉄道と言っているのか。これからは車の時代だよ」
そう言いながらも吉田は溝渕の頼みを聞き入れ、会長就任を引き受けた。大町が吉田の先見の明に感服するのは、それからずっと後だった。
(文中敬称略)
【写真】徳島、兵庫、高知など6府県市で発足した本淡四協議会(昭和35年6月15日、徳島 県庁)=徳島新聞社提供
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