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【紫雲丸事故】
本四鉄道構想に拍車
本州四国連絡道路・神戸−鳴門ルートの「生みの親」として語り継がれる人がいる。戦前に内務省神戸土木出張所長を務め、戦後は神戸市長として架橋建設に執念を燃やし続けた原口忠次郎(故人)である。
米サンフランシスコのゴールデンゲート橋の完成から三年後の昭和十五年四月。東京で開かれた内務省の全国土木出張所長会議の席上、原口は鳴門海峡を橋で、明石海峡を汽船で結ぶ本土四国連絡構想を発表した。構想は軍の反対と太平洋戦争で立ち消えになったが、原口の頭から架橋構想が消えることはなかった。
昭和二十四年、神戸市長に就任した原口の構想は、鳴門海峡架橋から明石海峡架橋へと膨らんでいった。三十二年、原口は市独自の明石架橋調査費三百五十万円を盛り込んだ当初予算案を市議会に提案。当時としては破格の調査費に市内部や議会から反発の声が上がったが、原口は執念で押し切った。
議員や市民は「うちの市長は夢を見とるんか」。「夢の架け橋」の呼び名は、このころに付いたと言われる。
架橋とは別に国鉄の本四鉄道計画も進んでいた。二十五年六月二十二日付の高知新聞は「四国⇔本州をひとまたぎ」の見出しでこう伝えている。
<鳴門海峡に鉄橋を架け淡路島横断鉄道を建設、さらに明石海峡を海底トンネルでくぐり四国と本州を結ぶという鉄道建設史上最大の計画がいよいよ具体化することになった>
二十三年から国鉄大阪工事部と四国鉄道局が計画を進めながら、膨大な経費がかかるため柵上げになっていた本四鉄道構想が、連合国最高司令部の民間輸送局の一行の現地視察で再び脚光を浴び、基礎調査の実施が決まった―というニュースだった。
国土総合開発法が制定され、四国総合開発審議会で本州四国連絡構想が議題に上るなか、二十八年に鉄道敷設法が改正され、本四淡路線が予定線として追加された。
そのころ本県では二十六年に影野−窪川間が、二十八年に吉野生(よしのぶ=愛媛県)−江川崎間がようやく開通したばかりだった。
■南海中生徒が犠牲
翌二十九年九月、世界の海難史上二番目の大惨事が起きる。死者千百五十五人を出した国鉄青函連絡船・洞爺丸事故。それからわずか八カ月後の三十年五月十一日、県民にとって忘れることのできない事故が起きる。
午前六時四十分、国鉄宇高連絡船「第八紫雲丸」(一、四八〇トン)は、修学旅行で関西に向かう高知市立南海中学校の生徒(百二十一人)らを乗せ、高松桟橋をゆっくりと離れた。
悲劇は二十分後に起きた。濃霧のなか、高松市沖の女木島(めぎじま)の西方一・四キロにさしかかった紫雲丸は、宇野発の宇高連絡船貨物便「第三宇高丸」(一、二〇〇トン)と衝突。左舷に大きく傾いた紫雲丸はわずか二分後に沈没し、南海中の生徒二十八人を含む県人三十五人が犠牲になった。
死者百六十八人を出した紫雲丸事故の二日後、参院本会議で緊急質問に立った香川県選出議員の平井太郎は「海底トンネルに着手せよ」と迫り、徳島県出身の運輸相、三木武夫(故人、元首相)は本格的な調査を約束した。
二カ月後、香川県議会は「宇高連絡鉄道促進の意見書」を全会一致で可決する。ただ、当時は鉄道にしても明石海峡ルートが大きく先行していた。三十年八月、徳島県知事の原菊太郎(故人)を会長とする「本土淡路四国直通鉄道促進期成同盟会」が結成され、同十一月には国鉄が淡路島の岩屋で直通鉄道建設の調査杭(くい)打ち式を行った。
(文中敬称略)
【写真】紫雲丸の沈没事故現場。南海中の生徒28人を含む168人が犠牲になった(昭和30年 5月11日)
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