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【先覚者】
土佐の交通王も提唱
政治家の先見性も時代の潮流に乗らなければ、ほら吹き扱いにされてしまう。徳島県選出の衆院議員、中川虎之助もそんな一人だったに違いない。
大正三年三月。第三十一回帝国議会に「鳴門架橋および潮流利用発電に関する建議案」を提出した中川は、
「鳴門海峡に橋りょうを架設し、本土と四国の交通を完全なものにし、かつ鳴門潮流を利用した発電の可能性について調査研究するよう望む」
自信たっぷりに提案理由を説明したが、建議案はわずか三十分の審議で否決された。
「諸君の目は豆のごとし」。中川は捨てぜりふを吐いて退場したという。
提案は技術的な検討に基づくものではなかったが、国会で本四架橋が取り上げられたのはこのときが初めて。「阿波の大風呂敷(ふろしき)」と陰口をたたかれた中川の夢は、七十二年後の昭和六十年六月、大鳴門橋となって実現した。
一方、瀬戸大橋の提唱者とされているのが、香川県議会議員だった大久保ェ之丞である。
明治二十二年五月二十三日。中川が建議案を提出する二十五年前、讃岐鉄道(丸亀−琴平間)の開通式で大久保は、喜びに沸く参列者を前にこう祝辞を述べ、アッと驚かせた。
「塩飽(しわく)諸島を橋台として、架橋連絡せしめば、常に風波の憂いなく、南来北向、東奔西走瞬時を費やさず、それ国利民福これより大なるはなし」
この開通式の二カ月前、金刀比羅宮に奉納された一枚の絵馬には、当時世界最長のつり橋だったニューヨークのブルックリン橋が描かれている。アメリカ興業から帰国した足芸軽業師一座の座長が奉納していることから、洋行土産に持ち帰ったのではないかと伝えられている。
大久保はこの絵馬を見て、讃岐から本州に橋を架けることを発想したのではないかと言われる。大久保の提唱から一世紀後の昭和六十三年四月、瀬戸大橋は開通した。
■トンネルより橋
ところで、本県にも本四架橋を構想していた人物がいる。高知県交通の前身である野村組自動車部の創設者で土佐沿岸汽船、私鉄高知鉄道手結−安芸線の建設などを手掛け、「土佐の交通王」と呼ばれた野村茂久馬(安芸郡奈半利町出身)である。
茂久馬より三つ年上の実業家に金子直吉(吾川郡吾川村出身)がいた。金子は神戸の鈴木商会(現在の日商岩井)を世界的な貿易会社にのし上がらせ、帝国人絹や神戸製鋼、播磨造船など五十数社を創設した人物である。
高知新聞社が編さんした「土佐人物山脈」(昭和三十八年発刊)によると、茂久馬の同級生だったライオン宰相、浜口雄幸(高知市出身)が死去した昭和六年ごろのこと、帰高した金子が茂久馬にこう尋ねた。
「君は土佐の交通王ともてはやされているが、四国と本州を結ぶトンネルを掘る計画を立ててみないか」
茂久馬は自信満々でこう答えた。
「トンネルよりも淡路島を経由した陸橋がよい。既に設計済みだ」
「“夢のかけ橋”の完成図は既にこのころから茂久馬の頭の中に描かれていたわけだ」―「土佐人物山脈」はこう記している。
昭和六年と言えば、茂久馬が貴族院議員になる前年。しかし残念ながら、茂久馬の架橋構想のその後を確かめるすべはない。
◇
明治、大正、昭和、それぞれの時代に先覚者のロマンをかきたてた本四架橋。しかし、戦後の本四架橋がたどった道はロマンとは程遠い、どろどろした政治にほんろうされた歴史でもあった。
(文中敬称略)
【写真】昭和の初め、本四架橋を構想していたと伝えられる野村茂久馬の銅像(高知市の丸 ノ内緑地)
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