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【同期】
期待と不安ない交ぜ
昭和六十三年四月十日。前日来の強い風で瀬戸内特有のもやが消え、坂出(香川)から児島(岡山)がはっきりと見渡せた。
瀬戸大橋開通のその日、岡山寄りの下津井瀬戸大橋で行われたテープカット式で、会場の整理に当たっていた下村弘通さん(29)=本州四国連絡橋公団工務第一課、当時・児島工事事務所=は、「あすからこの上には立てないんだなあ」。そう思いながら快晴の空を見上げた。
四国の玄関口、坂出インターチェンジで来賓用の駐車場を担当していた鎌田美知さん(29)=同第一建設局総務課、当時・坂出工事事務所=は、管理事務所から一般車両の通行第一号を見送った。
瀬戸大橋開通のちょうど一年前、中村市出身の下村さんは宿毛工高を、高知市生まれの鎌田さんは高知西高を卒業と同時に、本四公団に入社した。
平成元年七月から神戸市の垂水工事事務所に移った下村さんは、淡路島側のアンカレイジを建設する第四工事区を担当した。明石海峡大橋の両端に鎮座するアンカレイジは、つり橋のケーブルを支えるコンクリートの巨大な構造物。淡路側のそれは地上部分だけで高さ五十二メートル、重量は三十七万トンもある。下村さんはその基礎工事に携わった。
まず海を埋め立てて作業ヤードを造成し、アンカレイジが設置される周りに直径一メートル、深さ二十メートルの穴を掘る。そこにコンクリートを流し込んで水を抜き、直径八十センチの鋼管杭(くい)を差し込んで地中に壁を造る。さらにその壁の内側を掘り、アンカレイジの基礎を築いた。
「ゼネコンのコマーシャルじゃあないですが、『地図に残る仕事』ができたかな、という感じですね」。ちょっぴり照れくさそうに下村さんは胸を張る。
瀬戸大橋開通と同時に、淡路島の洲本工事事務所に転属された鎌田さんは、用地補償交渉を担当した。
「一級河川がなく、雨が少ない淡路島にはため池が多いんです。島内の高速道路はそのため池を分断する形で通らざるを得ませんでした」
淡路の人々の水に対する思いは想像以上だった。補償対象になったため池は大小合わせて百七十二カ所。大半が金銭補償ではなく、代替の貯水池の整備を求めた。
「ため池の水利権者を田主(たず)と呼ぶんですが、底地の所有者より力が強いんです。その田主にも力関係があって調整が難しかったんですが、最後には『大変やったなあ』とねぎらってくれました」
■利用促進を
あれから十年。下村さんは神戸の本社に。近くの第一建設局で広報を担当する鎌田さんは、四月五日の開通式を前にマスコミの対応に追われている。
共に本県出身の二人は、明石海峡大橋開通後の古里・高知をどう見ているのか。
「橋をどんどん利用してもらい、高知への観光客が増えてほしいですね」と下村さん。鎌田さんも「徳島より高知の方が変わると思う。橋を契機に高知に大手企業が進出するのを期待しています」と話す。
しかし、来年春に尾道−今治ルートが完成すれば、本四公団の仕事は建設から維持管理に移る。若い二人に将来の職場への不安はないのだろうか。
「二百人ほど削減されると言われていますから、不安はありますね」。下村さんの言葉を受けて、鎌田さんは「記者さんからも『先行き厳しいよ』と言われます…。でも、利用促進に頑張るだけです」ときっぱり。
期待と不安がない交ぜのなか、同期生の土佐っ子・公団マンは開通の日を迎える。
【写真】「前売り通行券を買って両親に送ります」と話す鎌田さん(右)と下村さん(神戸市垂水区舞子)
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