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06年10月13日付朝刊
堀切は異例の構造 八巻孝夫・中世城郭研究会
高知城には、多くの謎が残されている。
その一つが本丸と二の丸の間、詰門の下にある堀切である。堀切は中世城郭によく見られ、曲輪(くるわ=本丸や二の丸など、城郭を構成する区画)と曲輪の間を大きく切断する役割を担う。だが高知城は堀切内に詰門、その上を廊下橋が通るという、全国にあまり例のない構造を持っている。
ここで注意したいのは、中世城郭から近世城郭へ移行するとき、城の防御の中心は石垣で造られる壁面となり、それまでの堀切はほとんど見られなくなるという点である。つまり、高知城のように、関ケ原の合戦以降に築かれた近世城郭には、堀切が使われないのが普通である。
もちろん、例外はいくつかある。その一つが彦根城。高知城と同じく関ケ原の合戦以降の緊迫感ある時期に造られている。とすれば、城の中心部を異例の大きさの堀切で切断し、本丸の守備を極限まで強化しようとしても、不思議はない。
だが、山内氏はなぜ、この異例で古式ともいえる堀切の使用を選んだのか。
この謎について、私は次のように考えている。堀切は、長宗我部氏のプランに規制されたのではないか。
つまり、山内氏が高知城を改造する際、すでにあった長宗我部氏時代の堀切を活用し、大規模にすることで現在の構造になった―という見方である。
現に、最近の高知城の発掘でも、予想外に多くの長宗我部氏の遺構(三の丸に埋もれていた石垣、伝御台所屋敷跡など)が見つかっている。しかも、長宗我部時代には現在の城の西側が大手であった可能性が高い。だとすれば、堀切の謎はかなり解ける。
現在の大手から本丸へ行くには、二の丸を経由するため、堀切の中を歩くことはない。
だが、西側が大手ならば、堀切の中を抜け、二の丸に入り、詰橋(当時は単なる木橋かもしれない)を通って、本丸にたどり着くことになる。
そうであれば、彦根城の堀切にある天秤櫓(てんびんやぐら)や木橋と同じような構造で、堀切の機能を最大限に生かすことができる。
この推定が妥当かどうか、まだ確証はない。ただ、城の西側一帯には、高知城の謎を解く鍵となる、山内氏以前の遺構が眠っていることは間違いない。
【写真説明】堀切の中にある詰門。全国的にも珍しい構造だ
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