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06年10月11日付朝刊
高知城を見直そう
今年は大河ドラマの影響もあり、高知城を訪れる観光客が例年になく多い。観光立県を掲げる本県には喜ばしいことかもしれないが、ドラマと史実が混同されかねないなど、手放しで喜んでばかりはいられないこともある。
とりわけ高知城と城下町の歴史については問題をはらむ。近年の発掘調査によって山内氏以前の高知城の実像が急速に解明されているのに、これらの新事実はドラマや観光イベントに押しやられて表に現れない。また、堀跡が確認された城の西側にマンション建設が計画されてもいる。
「郷土の宝」を見直す契機にするため、研究の最前線を連載の形で紹介したい。日本の代表的な城郭・歴史の研究者たちに、それぞれの立場から高知城の特徴や価値を語ってもらう。(構成=市村高男・高知大学教授)
【写真説明】高知城の原型は長宗我部氏によってつくられた
桐紋瓦は語る 中井均・織豊期城郭研究会代表
今年3月、高知市教委は高知城跡西側のマンション建設用地で行った発掘調査の結果、桐(きり)の絵柄が付いた「桐紋瓦」が出土したと発表した。
大きさや形状などから、棟を飾る小菊瓦であったと考えられる。
桐紋は足利将軍家の家紋であり、武家の棟梁(とうりょう)の家紋とされてきた。織田信長も朝廷よりこの紋を下賜され、安土城の軒平瓦に用いた。
また、これまでも三の丸の石垣修理に伴い、2点の桐紋が施された軒丸瓦が出土している。
これら桐紋瓦の使用された年代であるが、製作技法や、ともに見つかった遺物などから、私は16世紀後半と考える。
一般に高知城は、関ケ原合戦の翌年、慶長6(1601)年に入国した山内一豊が居城として築いたと思われがちである。
しかし、それ以前には長宗我部氏がこの場所に居城を作っていたことを忘れてはならない。しかも、その築城には、豊臣秀吉が大きく関与したふしがある。
天正13(1585)年、秀吉による四国平定で、長宗我部元親は父祖伝来の聖地でもあった岡豊城を廃し、高知城を築き移転している。それは長宗我部氏の自発的行為ではなく、秀吉による築城命令ともいうべきものであった。
金箔(きんぱく)瓦や桐紋瓦の使用は、信長や秀吉の厳しい規制のため、特定の大名の居城にしか用いられていない。
つまり、高知城から桐紋瓦が出土したということは、秀吉大名となった長宗我部氏に桐紋が下賜され、城郭瓦に桐紋瓦をふくことが許可されたことを物語っている。
また、桐紋瓦が高知城西側のふもとで出土したということは、この周辺に居館が存在したことを示唆しており、さらにその付近は、長宗我部氏時代に大手(城の正面)であった可能性が高い。
このように、新たに発見された桐紋瓦は、マンション建設予定地となっている場所が、初期の高知城にとって大変重要な地であることを立証したといえる。
【写真説明】マンション建設予定地で発見された桐紋瓦
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