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はがき大の手帳。薄い茶色のページ一枚一枚には、この持ち主がいつ、何という名のどこの船に、どういう職務で乗っていたかが記されている。「船員手帳」。海の男の履歴書である。
宿毛市小筑紫町内外ノ浦で一冊の手帳を見せてもらった。表紙の裏にきりっとした顔立ちの、肩幅の広い男性の白黒写真。岡本清美さん。1999年、73歳で亡くなっていた。
「よう捨てんと置いちゃあるばあですけん。まあ、見ちゃってください」。妻の豊子さん(77)にうながされ、手帳のページをめくる。岡本さんが生前語っていた言葉を思い浮かべながら。
「わしは太平洋で2回被ばくしとる。第五福竜丸がビキニで被ばくした時と、その後に」
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ビキニ事件の1954(昭和29)年に乗船した船の記録は、手帳の前の方にあった。
安芸郡安田船籍の第二新生丸(72・26トン)。岡本さんは生前、高知新聞の取材に、この船名を挙げ、答えている。「灰をかぶった。マストの横に張り出した棒にまで高く積もっていた」
2度目の被ばくは、56年9月から2年間乗った室戸船籍の第八達美丸(99・17トン)。岡本さんは「火の玉」を見たと言っていた。
「晩の7時か8時ごろだったと思う。皆ではえ縄を揚げていたら突然、大明かりになった。空を見ると赤い火というか、太陽のような丸い玉があった。1、2時間後にスコールが降った」
詳しい遭遇時期は覚えてはいなかった。「船に乗った期間の、いつか」。しかしその後、同船した元船員の証言などで58年と分かった。
場所は不明のままだ。同年、アメリカ、イギリスが太平洋中西部で実験していたのは3カ所。マーシャル諸島のビキニ環礁かエニウェトク環礁か、それとも、そこから東南東に約4000キロ離れたクリスマス島か。
豊子さんに質問を向けた。詳しい話を聞いたことはありませんか―。
「他人にはしゃべったかもしれんけど、私にゃあんまり…。ただ何遍も聞いたがは、『あんなもん見たらええことない。体がどうかなっちょる。早う死なにゃならん』と。笑うて言いよりましたがね、昔は…」
寂しげな視線が船員手帳に落ちていた。
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岡本さんと同じ船に乗り、核実験に2度遭遇している人が、内外ノ浦には少なくとも3人いた。このうち2人は10年以上前、50、60代の若さで亡くなっている。がんだった。
岡本さんも50代から体調を崩した。医者からは「血管が細くなっている」と言われていた。
5年前の、7月の暑い日だった。豊子さんが自宅に戻ると、地域の清掃に出掛けていたはずの岡本さんが玄関で倒れていた。心臓発作による突然の死。最期の言葉も聞くことはできなかった。
豊子さんが手帳を手に取ってめくり始めた。そのページを見るとはなしに、つぶやいた。
「皆、楽な病気で死んじょらんですよ」
【写真説明】亡き夫、岡本清美さんの船員手帳や写真に見入る豊子さん(宿毛市小筑紫町内外ノ浦の自宅)
(2004年12月18日付朝刊掲載)
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