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「灰滅(かいめつ)の海」―。1954(昭和29)年3月、その海は太平洋中西部にこつぜんと姿を現した。
アメリカはビキニ環礁で水爆実験を実施。静岡県焼津船籍の第五福竜丸に放射性降下物「死の灰」を浴びせた。それだけではない。実験は5月まで計6回行われ、近くで操業していた高知の延べ270隻をはじめ、日本船延べ855隻を被ばくさせた。
それから半世紀。85年から7年間、事件を追った県ビキニ水爆実験被災調査団や幡多高校生ゼミナールが昨秋、11年ぶりに調査を再開。今年8月には高知市が「ビキニ水爆50年」展を開いた。
こうした動きに、当時を思い起こした県民も少なくなかった。
元船員の中には、自らの体験を語り始めた人もいた。「米軍機が船の上に紙の入った筒を落として。危険区域なので出るようにと書いてあった」「福竜丸と一緒。船員やマグロに当てられたガイガーカウンター(放射線測定器)が、ガーガー鳴ってなあ」
再びよみがえった50年前の悲劇。あの海は、その後も消えることなく、人々の心を苦しめ続けた。
【写真】韓国の港で調査を進める幡多ゼミの高校生ら。彼女らとともに再び「灰滅の海」を追った(8月20日、釜山市影島区)
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ビキニ事件2年後の56年から58年、そして62年にアメリカ、イギリスはビキニなど太平洋中西部で92回もの核実験を行った。その威力は、広島に落とされた原爆の六千数百発分。
当然のように異変が起きた。
58年7月8日付の高知新聞夕刊に「海に強い放射能」との見出しが躍った。ビキニ南東1440キロを航行していた日本の貨物船が、1リットル当たり毎分400カウント(マグロの廃棄基準は100カウント以上)の放射線を測定した。
同月14日には、ビキニ西方で海洋調査を行っていた海上保安庁測量船「拓洋」が、1リットル当たり毎分10万カウントの放射線を含んだスコールに遭遇。血液検査では、乗組員の白血球数が全般的に低下していた。
そんな海で、高知のマグロ船員たちは働き続けた。県内の港町を歩くと、70歳を過ぎた海の男たちの証言を幾つか聞くことができた。
「福竜丸の時じゃあない。その後よ。ちょうどハワイとサモアの間で。夜、大きな火の玉が出て5分か、10分か、真昼ばあ明るうなった」
「事件から2、3年してやったか…ぴらぴらと降る雪のような物が船のライトに照らされて。後で分かったんよ。それが死の灰やと」
ビキニ事件のあった54年は政府の調査もあり、被災船の数が明らかになっている。しかし、その後の実験時には調査は行われず、どれだけの船や人が被ばくしたのか、その実態は今なお闇に包まれている。
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県ビキニ水爆実験被災調査団が今春まとめた本「もうひとつのビキニ事件」(平和文化刊)がこのほど、平和・協同ジャーナリスト基金の基金賞(大賞)に選ばれた。50年前の、第五福竜丸以外の被害に光を当てた活動が評価されたのだ。
ただ―。同調査団副団長で、幡多高校生ゼミナール顧問の山下正寿さん(59)=宿毛市山奈町=は言う。「事件は50年前で終わってはいない。また日本だけの問題でもない。その後も核汚染は続き、アジアの国々に被害が拡大している」
本をまとめた後も、調査は続いた。証言を求めて県内、そして韓国。調査団や幡多ゼミの高校生たちとともに再度、「灰滅の海」を追った。(社会部・塚地和久)
(2004年12月17日付朝刊掲載)
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