
ピカソはマラガで生まれて10年ほどを過ごし、大西洋に面した港町のラ・コルーニャに移り住む。父の転職に伴うものだった。
ピカソの父は、そのラ・コルーニャの地を憎んだという。マラガとは正反対な暗うつな気候、そして末娘のコンセプシオンを病気で亡くすという深い悲しみを味わった。
しかし、そうした環境にあってもピカソの絵にはますます磨きがかかり、人々の尊敬を集めるようになる。父が自分の絵画道具をピカソにすべて与えて、絵をやめてしまったのもこのころだ。ほどなくして父にまた転職の話がある。今度はバルセロナでの美術教師の職だった――。
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マラガを後に、空路バルセロナに向かう。
バルセロナの街は、夜が更けるほどに、にぎやかさを増してゆくようだった。何しろレストランの開店時間は午後8時以降というところが多い。バルセロナのピカソ美術館そばに、安くておいしいというレストランがあると聞いて行った。生ハムの盛り合わせやパエリャといった料理の味と値段に満足して店を出た。
目抜きのランブラス通りでは、さまざまな路上パフォーマンスが繰り広げられていた。音楽、ダンス、手品、喜劇…。人だかりの多さが、面白さのバロメーターのようだった。熱気に浮かされるように、深夜のバルセロナを歩き回った。
ホテル近くでのドラムとタップによる二人組のパフォーマンスにくぎ付けになった。ダンサーの手拍子とタップ、そしてドラムの三つのリズムが情熱的に絡み合う。これがフラメンコの精神というものだろうか。ダンサーの表情は決して明るいものではない。その激しいリズムの根本は、日々のやるせない気持ちや悲しみから生まれているように思った。
バルセロナにやって来たとき、ピカソは14歳になっていた。そして、人生において最も多感な時期をこの地で過ごすことになる。ピカソが「画家ピカソ」となったのは、パリにおいてだろう。しかし、バルセロナの路上の芸術家たちが発するにおいと同じものを、その変貌(ぼう)する芸術の中に保ち続けたのではないだろうか。ピカソは終生にわたって「自分はスペイン人だ」と言った。
【写真】バルセロナの目抜き通りで繰り広げられる深夜のパフォーマンス