|
「『転がし』。それしか方法がなかったんです」
元県出納長だった大町行治さん(82)は、吹っ切れたように高知競馬場の建設のいきさつを話す。
もともと高知競馬場は高知市桟橋通にあった。それが、外厩(がいきゅう)制度(競馬場外の遠隔地で管理している馬をレース当日だけ運び込んで走らせる制度)の禁止などに伴い、手狭な場所からの移転を余儀なくされていた。
香美郡吉川村との綱引きの末、高知市長浜に移転が決まったのは昭和48年。県市は県開発財団(県土地開発公社の前身)と市土地開発公社を使って用地取得に入った。
「とはいっても、財団や公社では資金が足りない。それで県が単年度貸し付けをやるか、となった。いわゆる『転がし』です」
県は開発財団に対し、4月1日に資金を貸し付ける。財団は県への返済資金がないから、毎年3月31日に金融機関から一時借り入れをして県に返す。その上で県はまた、翌年度の4月1日に資金を貸し付ける―。これを繰り返す。
「こうすれば金融機関への金利が少なくて済む。議会には予算案の議決をもらえば事足りる。県予算の帳面には赤字が残らない。金のない自治体の、まあ知恵みたいなものだった」
県幹部が個人のはんこで金融機関に「つなぎ保証」をする慣習もあった。
「4月1日には県から金を出して返すわけだが、金融機関は手続き上、その保証となるものが欲しい。そこで財団理事を兼ねている県職員がはんこをつく。私も1回つきました」
昭和40年代に大町さんらが用いた「転がし」はその後も重用され続けた。
県政を激震させた同和縫製業の協業組合への「闇融資」の時もそうだった。年金保養施設を経営していた「財団法人グリーンピア土佐横浪」も各年度の赤字相当額をこの手法で埋め県は約5億円を焦げ付かせた。
「転がしの本質は、事業主体である自治体の責任の先送り。いずれ帳尻を合わせ、追認する時がやってくるのですが」
当時の競馬場移転事業の背景には金融機関の貸し付け攻勢もあったと、大町さんは述懐する。
「当時、知事と地元企業のトップが料亭で定期的に会談する会合があって、重要な案件はそこで意思疎通を図っていた。僕らは別の部屋で待機していてね。その会合に金融機関が二つ入っていて、特に競馬場で熱心だったのは農業系の金融機関だった」
用地の買収が本格化すると、「転がし」による県の単年度貸し付けでは間に合わず、開発財団は金融機関から短期の一時借り入れを重ねた。
「一部地権者による土地価格のつり上げが始まった。最終的には既に買っていた地権者が10%、未買収者が20%の上積みで決まったはず」
競馬場建設に要した用地買収費は金利と合わせて計43億円。このうち25億円は県議会の債務負担行為の議決に基づき、昭和52年度から8年をかけ競馬の収益金の中から返していった。残り18億円は旧競馬場跡地の処分金で払った。
「もっと深刻な問題があった。建設費をどうするか。闇でやるしかなかった」。話は続く。
【写真】レース後、薬物検査のために尿を採取する。馬が出すまで何時間でも待つ(高知競馬場)(高知競馬場)
(平成16年6月24日付夕刊掲載)
|