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1954(昭和29)年12月6日。室戸岬水産高校3年生だったAさん=当時(20)=が死亡した。「放射能雨による白血病死」。県ビキニ水爆実験被災調査団は、そう推論した。
しかし、同級生は「水爆との関係は考えられない」という。Aさんの地元を歩いてみても結果は同じだった。「放射線障害? 聞いたこともないが」
取材を進めるうち、県東部に暮らすAさんの親類の男性に会うことができた。「誰も知らん? そうじゃろうね」。男性はしばらくの沈黙の後、何かを心に決めたように、小さな声で話し始めた。
「初めて話すがね、それには訳があるんじゃ」
【写真】Aさんの墓。病状について“かん口令”が出された中での死だった(県東部)
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高知市内に入院したAさんの身の回りの世話をしていた男性は当時、病院やAさんの親から「水爆が原因の病気」と聞いていたという。Aさんは注射のたびに痛がり、うなり声を上げた。「水爆にやられると、こんなになるんか」と思った。
その年の秋ごろから、どこで入院先を聞いたのか、記者が病院によく現れるようになった。しかし、男性や家族は何も語らなかった。「水爆じゃいうことは一切口にするな」。父親は周囲にそう命じていた。「で、家族以外は誰も知らんのよ」
“かん口令”だった。その理由を男性に尋ねると、少し間があいた。
「そう、誰もがビキニ事件に敏感になっとった。稼ぎ損ねた船員。その家族。商売にならん店。いろんな声があった。何というか…。そういう雰囲気の中、Aとビキニが結び付かんよう、話を抑えるのに必死やった。新聞記者に書くなと頼んだこともあった」
そう言い、男性は再び黙り込んでしまった。
沈黙がある事実を想起させた。
広島、長崎の被爆者は「原爆症が子孫に遺伝しやしないか」と結婚差別に遭った。「原爆症はうつる」。そんな根も葉もないうわさも広がった。「うちの銭湯には来るな」「被爆者は雇えない」。理不尽な言葉を浴びせられた。
放射線の恐怖を語れない。核の大罪を告発することもできない。沈黙し、過去を隠し続けるしかない―そんな生き方を選んだ被爆者の方がむしろ圧倒的に多い。
それはビキニの被ばく者も同じだった。
長崎、ビキニで二重被ばくした藤井節弥さんも、その恐怖や悩みを打ち明けることはなかった。そして60年、27歳の若さで自ら死を選び、永遠に沈黙した。
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アメリカは54年9月23日、人類史上初めて水爆で人を殺した。被害者は第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さん=当時(40)。日本中で反核の声が上がった。広島、長崎で被爆者らによる運動も起こり、翌55年、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれた。
が、そんな時代―。Aさんについては、新聞で「原子病(放射線障害)?」と取り上げられただけで、その死の真相が掘り下げられることはなかった。
(2004年3月5日付朝刊掲載)
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