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1954(昭和29)年9月30日の高知新聞にショッキングな見出しが躍った。
「生徒が原子病? 室戸岬水産高 校長、県教委へ報告」
当時同校の3年生だったAさんが7月から入院中であること。そして校長が「5月末、カツオ漁船で実習に出掛けたAさんが帰港後に発病し、重体となっているが、原子病(放射線障害)の疑いがある」との報告書を提出した、と伝えている。
担当医は、生徒の病状は貧血症とし、操業海域もビキニとは遠く離れた伊豆七島の東だった。
しかし一方で「(生徒は)鼻血が止まらなかったり、体中がだるかったりしていたようで、入院時の白血球は1500(通常は6000―8000)に減っていた」という。
記事が出たのは、第五福竜丸の無線長、久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなったちょうど1週間後。騒ぎになるのは当然のことだった。
【写真】1954年9月30日の高知新聞朝刊。「生徒が原子病?」とAさんの病状について報じている
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Aさんの乗った漁船には50人ほどの乗組員がいて、実習生はAさんら3年生3人だった。
2月、同乗の同級生の1人、県東部の男性(67)に会うことができた。
男性によると、Aさんは船主の長男。中学卒業後に3年間、船乗りをした上で水産高に入った。屈強で、部活は相撲。同級生や後輩の面倒見も良かった。向上心の強い“海の男”。そんな印象が残っている。
「実習は(54年)4月から8月まで3航海の予定でしたが、Aさんだけが1航海で6月に帰った。『力を入れて踏ん張ったら、痔(じ)が、なあ』って」
その秋、男性は病院にAさんを見舞った。「実習の話をしたり、いたって元気でしたよ」
が、Aさんの容体は急に悪化。下船からほぼ半年後の12月6日、20歳の若さで亡くなった。
それから31年後、二重被ばくが原因で自殺したとみられる青年の軌跡を追っていた県ビキニ水爆実験被災調査団の目に、冒頭の記事が留まる。「もう一人、若い犠牲者がいたなんて」「しかし、どうしてビキニの遠くで」
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調査団は天気図に着目した。Aさんが乗っていた船の操業海域では、当時、梅雨前線下で激しい雨が降っていた。このころ、日本の各地で放射能雨が観測されている。ビキニの「死の灰(放射性降下物)」は一部が実験の爆風で高く巻き上げられて気流に乗った。そして、雨になって船上に降り注いだ。
「Aさんは被災し、白血病にかかった」。これが調査団のたどり着いた推論だ。この推論を男性にぶつけた。
「確かに雨に遭った。実習後、髪や爪(つめ)を切って保健所に提出した記憶もある」
しかし、それ以上の詳しい記憶はない。Aさんが放射線障害だという話も聞いた覚えがない。「水爆との関係は考えられんのです。病気になったのは同じ船に乗った50人のうち、彼だけなんですから…」
Aさんの死の周辺をさらにたどってみた。
(2004年3月4日付朝刊掲載)
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