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陸(おか)に揚げられた古びた木造船は、見上げるほどの高さがあった。船体だけで5メートル。マストの先端までだと15メートルある。長さ34メートル。140トンの船は意外に大きい。
「第五福竜丸」―。
1954(昭和29)年3月1日。静岡県焼津市船籍の同船は、太平洋中西部のマーシャル諸島・ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験によって、23人の全乗組員が被ばく。半年後、無線長の久保山愛吉さん=当時(40)=が死亡し、人類初の水爆犠牲者になった。放射性降下物はこの事件を機に「死の灰」と呼ばれるようになった。
東京都江東区の「夢の島」に76年、第五福竜丸展示館ができた。これまでに約400万人もが訪れ、「悲劇」は後世に伝え継がれているようには見える。
しかし、その傍らで忘れ去られようとしている事実がある。
【写真】廃棄から一転、展示されることになった第五福竜丸。ビキニ環礁では同船以外にも、本県漁船延べ270隻など多くの船が被ばくしている(1975年、東京都江東区の「夢の島」)
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2月半ば、ある男性を県西部の町に訪ねた。半世紀前、あの「死の灰」を浴びたかもしれない人である。
家の近くから電話をかけると、男性の妻は「息子に会ってくれませんか」と言った。息子さんに会った。男性は2年前、脳梗塞(こうそく)に襲われたと聞かされた。
「受け答えがはっきりできないんです。すいませんが…」
マグロ船船長だった男性は86年、高知新聞にこう語ったことがある。
「(54年)3月1日の早朝でした。私と甲板員がブリッジで起きていると、真っ暗闇に稲妻が走り、水平線が急に明るくなりました。その後、オレンジと紫が混じった太陽が上がったようになりました…」
水爆実験だった。
ビキニ環礁から約370キロ東方。マーシャル諸島近海の漁場に向けて航行中の出来事だった。が、その時には水爆実験とは分からず、そのまま操業を続けた。
異常な事態に巻き込まれたと気付いたのは、東京港に帰港した47日後。ガイガーカウンター(放射線測定器)を持った国の検査官が待っていた。測定器がガー、ガー鳴り続けた。船からも魚からも、自分の体からも放射線が検出された。
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被ばくしたのは第五福竜丸だけではない。この年の3月1日から5月14日にかけ、アメリカは「キャッスル作戦」と名付けた計6回の水爆実験を行っている。水産庁によると、周辺海域で日本漁船延べ856隻が被ばく。実にこの約3分の1、延べ270隻が本県の船だった。
歳月とともに忘れ去られていた本県漁船の被ばくの実相を、被ばくから31年後の85年から追い始めたグループがある。「県ビキニ水爆実験被災調査団」(森清一郎団長、約50人)。幡多高校生ゼミナールの生徒たちと一緒に漁船員の証言をフィルムに記録、全容に迫ろうとした。
活動は一時、休止されていたが昨秋、11年ぶりに再開。被ばく50年に向け、乗組員の健康被害の解明などに再び当たり始めた。
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「船室の隅々に灰がたまっておった」
「船員は髪の毛や爪(つめ)を切られて調べられた」
「当時の仲間は皆、早うにのうなってしもうた」
再開された調査活動を追い、本県の被ばく者や関係者を訪ね歩くうち、こんな証言がぽつり、ぽつり聞こえてきた。「核の恐怖の証人」は、私たちのすぐそばにいる。(社会部・塚地和久)
(2004年3月1日付朝刊掲載)
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