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元名古屋競馬騎手の坂本敏美さん(51)=福井県勝山市=は北海道静内町出身。生まれてすぐに父親をなくし、母親の再婚先の家に養子として入った。
「貧しかったし、父親も違うし、そんなだから高校は行けないだろうって思って」
義理の兄が競走馬の育成牧場をしていた縁で名古屋競馬へ。「写真でしか見たことがない」騎手の世界に体一つで入った。
騎手学校時代は腹筋運動ができない「落ちこぼれ」。騎乗フォームも独特で、居残り練習をさせられた。
「馬の餌のえん麦の袋を足に挟んで、自分なりにむち入れる練習したけど。でもやっぱり乗り方がおかしいって言われて。でも直そうとすると、馬を追えないんだな」
17歳でデビュー。型破りの少年は勝ちまくり、3年後には名古屋競馬の年間勝利数1位(リーディング)に。昭和50年代は独り舞台。49年から60年までで、リーディングが途切れたのは一度だけ。それも「騎手免許の更新を忘れて馬に乗れなかった」からだった。
「あのときは半年後に高知競馬で騎手免許取ったんだよ。桟橋ってとこで、夜明け前にカモが鳴いてたなあ。懐かしいな」
ハイセイヒメに乗ったのは、通算2600勝が目前のころ。レース前夜、競馬新聞で見て自分の騎乗を知ったのだという。
「その前のレースで(ハイセイヒメの)体調がおかしかったので、次は使わないように言ってあったんだ。それが、乗ることになってて」
事故に巻き込まれた後、坂本さんはレース主催者の名古屋市と調教師を相手取って損害賠償を求めて訴訟を起こした。しかし、裁判には勝てなかった。
「お金はどうでもよかったんだけど、騎手に何も補償システムがないのはおかしいと思ってね。でも要は、騎手には競馬場という仕事場を貸しているだけってことでさ。主催者たちと雇用関係がないって」
東海の競馬を背負って走り続けた「神様」が受け取ったのは、裁判の和解で出された、わずか100万円の見舞金だけだった。
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車いす生活になってから、以前乗っていたジュサブロー(有馬記念などでも活躍)という馬に会いに行ったことがある。
「それがあいつ、おれ見て逃げ回ったんだよ。車いすが怖かったのかな。というか、おれにはもう、においがないんだな」
雑談にまぎれ、ハイセイヒメの厩務(きゅうむ)員で、その後高知競馬に流れた本山喜久さんのことを聞いた。
「えー! 本山亡くなったの? いつ?」
3年前に亡くなったことを告げると、絶句して、息を吐くようにして続けた。
「厩舎の調教師も、親友の佐治(泉太騎手)も亡くなって。みんなおれが引き連れたのかなあ」
日が傾きかけた。坂本さんは長い廊下を見送りに出て来てくれ、「トク(徳留康豊さん)に伝えてください」と言った。
「いつまでも強気なレースにこだわらなくっていいからさ、おまえももう、若くないんだからって。競馬は馬に任せるのが、一番いいんだ。馬が行きたいって言えば、行かしてやれ。それと、酒は飲み過ぎるな」
会っていない「弟」を懐かしむような、優しい目だった。
福井の山里は冷えて、身震いがきた。
【写真】泥だらけでゴール板を走り過ぎた徳留騎手。「もう若くないんだから」と話す坂本さんとは17年間会っていない(昨年11月、笠松競馬場)
(平成15年3月25日付夕刊掲載)
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