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「約束が違うじゃないですか!!」
昭和57年。名古屋競馬時代の徳留康豊さん(43)は23歳のとき、厩舎(きゅうしゃ)の長である調教師に向かって、火を噴くように抗議したことがある。
「レビンフィック」という馬がいた。徳留さんが体を磨き、攻め馬をし、世話を焼いていた。当然、この馬でレースに出られるものと思っていた。
ところがレース直前のある日、調教師は「屋根をかえる」と言いだした。別の強い騎手と乗り換われ、と言うのだった。「乗せてください」と頼むと、調教師の妻は言った。
「あんたで負けたら弁償できるの。レースの1着賞金は500万円よ」
馬主の金がかかっている。引かねばならないと分かってはいるのだが、引けなかった。家に帰って持ってきた預金通帳に印鑑を添え、調教師の妻に放り投げるようにして頼んだ。
「負けたら、これで弁償しますから」
徳留さんは宮崎県都城市で生まれた。幼いころに父親を亡くし、親類の家を転々とした。貧乏だった。外で働いていた母親とは暮らせず、数カ月に一度しか会えなかった。
強くなりたくて、新聞配達で稼ぎながら少林寺拳法の道場で鍛えた。体が小さくて向こう見ずで、気が強かった。転々とした最後に引き取られた父親代わりの男性の勧めで騎手を目指した。
名古屋競馬の厩舎に入ったのは16歳。栃木県の競馬学校を4カ月で卒業し、17歳でデビューした。勝ちたくて勝ちたくて夢中だった。
レースに出るようになると、すぐに2勝を挙げた。ところがそれから1年半、調教師は一切レースに出してくれなかった。
「2勝もしたし、もうええやろ。今からいろいろ見て勉強しろ」
名古屋競馬と、騎手同士が行き来している岐阜県・笠松競馬の騎手は当時計約80人。「辛抱できないやつはやめていけ」の世界だった。毎朝3時から、ほかの騎手たちが乗る馬の世話に明け暮れた。
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預金通帳には500万円以上あった。調教師の妻は、通帳と引き換えにレビンフィックに乗ることを許してくれた。
レース当日。自分の心臓の拍動が聞こえた。ゲートに入ると、「どうにでもなれ」と居直った。
スタート。大好きなレビンフィックは、意気に応えるように駆け出した。馬群の内側を4、5番手で追走し、最後のカーブに入ったときだった。
「内、内、閉めれー」。騎手の激しい声が聞こえた。内側を抜かれるのは騎手の恥だ。前を行く騎手が行く手を阻もうとしてくる。内が閉まれば勝ちはない。
「行け。ここで死んだら、きりがいい」
合図を受けた相棒はスピードを上げ、馬込みの内側をこじ開けて、すぱっと抜けた。目が覚めるようにすり抜けた。「抜けたわー」と思ったら、中京競馬場の緑色の芝が、目の前にぱーっと広がった。もう前には1頭もいなかった。
「まぶしかったあ。今思い出しても」
広い芝だった。後は駆け抜けるだけだった。
【写真】馬の思い出は尽きない。写真はトクさんの最近の相棒、エイシンドーサン=右(2月、佐賀競馬場)
(平成15年3月13日付夕刊掲載)
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