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1945(昭和20)年冬。中原民子さん=当時(12)=は、家族6人を次々に失った。残ったのは、弟=同(11)=と妹の初さん=同(7つ)=だけだった。
奉天(現・瀋陽)の難民収容所。疲れ果てた人々が、セメントの床でむしろに横たわる。1日1回、茶わん1杯のアワとコウリャンのおかゆが配られた。
3人は両親と祖母が残した服を売り、わずかのコメに換えた。小さな飯ごうに水を入れ、枯れ木にマッチで火を付ける。3人は炊き上がったご飯を大切に分け合って食べた。それも2日でなくなった。飢えと寒さ。同じ開拓団の人々は散り散りになり、助けてくれる人はいない。不安だった。
ある日、中年の中国人夫婦から「この子(初さん)をもらいたい」と声を掛けられた。夫婦からおにぎりを手渡され、初さんはおいしそうにほお張った。
(きょうだいが一緒におりよね…)。母の最期の言葉が頭をよぎる。中原さんは「妹だけではやらない。私たち3人一緒なら行く」と伝えた。夫婦は「きょうはもう日も暮れて遅いから、妹だけ連れていく。2人はあした迎えに来る」と言い、初さんの手を引いた。
立ち上がろうとする妹に、中原さんは声を掛けた。「はっちゃん、行くかね」。妹はうつむいたまま、「行く」とだけ言った。手を引かれていく小さな背中。
何日待っても残された2人に迎えはなく、妹とはそれっきりになった。
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1週間後、今度は50歳ぐらいの中国人の男から「ご飯を食べさせてやるから、うちに来ないか」と誘われた。「弟と一緒なら行く」と答えると、男は「それでもいい」とうなずいた。
自転車に乗せられ、民家に連れて行かれた。3日ほど過ごし、中原さんだけが男に外へ連れ出され、また自転車に乗せられた。
着いたのは老夫婦の家。そこで病気で寝込む夫の世話をするよう言われた。しかし衰弱し、骨と皮だけの中原さんに体力はない。数日後、男が再び現れ、老夫婦と何かを話し込んだ後「帰る、帰る」と中原さんを連れ出した。
街の人込みの中を行く男。中原さんはふらふらと追い掛ける。男は構わず、どんどん進む。やがて雑踏に紛れて消えた。
「売れなくて、捨てられたんだ」と知った。道も分からず、弟の所へ帰ることはできない。とうとう独りになった。
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中原さんはそれから家々を回り、門の前で「めしめし、しんじょう」と頼んだ。めしは「飯」、しんじょうの意味は分からない。いつの間にか覚えた物ごいのせりふだった。温かいご飯をくれる家もあれば、「行け、行け」と冷たく追い払われることも多かった。日が暮れると、軒下や庭先に潜り込んで眠った。
ある日、ご飯を食べさせてくれた家に、幼い子どもがいた。中原さんは片言の中国語と身ぶりで「子守でもしますから」と懸命に訴えた。その縁で別の家に数日泊めてもらうことができた。やっと温かい食事と寝床を得たが、その家は中原さんを17歳だという長男の嫁にしようと考えていたようだ。しかし長男は中原さんを気に入らず、「早く追い出せ」と何度も怒鳴った。
「家へ帰りなさい」。やがて家人からもそう言われ、中原さんは泣いた。
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どこにも帰る場所などない。途方に暮れ、寝床に座り込んでいた中原さんは、優しい声を耳にした。
「ライライ」(こっちへおいで)
家の戸口に誰かが立っていた。背が高い丸顔の少女。優しく中原さんにほほ笑みかけていた。
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