ことし初夏。高知市鷹匠町2丁目の坂道に、県中国帰国者の会会長の畑山墨子さん(78)=同市横浜新町1丁目=らの姿があった。
坂道は、大勢が集まる夏祭り会場へとつながっている。畑山さんたちはその片隅で、小さな募金箱を手に立った。訴訟準備の資金を集めるためだった。
「お願いしまーす」。慣れないことで、大きな声が出ない。声は雑踏にのみ込まれていく。若いカップル、孫の手を引くおばあさん…。畑山さんらに関心を寄せる人は少ない。目の前を、笑顔だけが通り過ぎていった。
「すいませんが…」と男性が声を掛けてきた。「あのう…、ここで並ばれたら、通る人の邪魔になる。どいてくれませんか」。結局、募金は続けられなくなった。
【写真】畑山さんの話を聞いて泣く女性。私たちは孤児たちの叫びを受け止めることができるか(中村市)
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畑山さんは昨年から、孤児訴訟の準備に奔走している。講演を重ね、街頭募金に立ち、孤児と弁護士の面談には通訳として付き添っている。
畑山さんは昭和19年秋、家族と旧満州(中国東北部)へ渡った。終戦後の逃避行で父と弟を失い、16歳の弟とともに中国人の青年に助けられた。帰国できたのは平成元年1月だった。
終戦当時、旧満州に取り残された13歳以上の女性たちは「中国残留婦人」と呼ばれている。日本政府は彼女たちを13歳未満の残留孤児とは区別し、「自分の意思で大陸に残った人たち」と位置付けて、帰国への手助けもほとんどしないまま放置してきた。現在、県内で暮らす残留婦人は約20人。畑山さんもその1人だ。
今回の集団訴訟では、原告団に残留婦人は加えられていない。たとえ裁判に勝ったとしても、見返りのないはずの畑山さんはそれでも街頭に立ち続けている。
「孤児たちも年を取ったが、まだほんのいくらか私よりは若い。散々苦労してきた。老後ぐらいは心穏やかに暮らさせてやりたい。あの寒かった奉天で会った男の子。親を亡くし、虐待され、泣いていた。涙をいっぱいためて、私を見詰めたあの顔を忘れることができない」
畑山さんは、裁判は今生きている孤児たちだけのものではない、とも思っている。
蒸し暑い野道で、凍える収容所で、亡くなっていった罪のない子どもたち。戦争の犠牲となった人たちのことを忘れたくない。「この裁判は、決してお金の問題じゃないんです。私たちが勝って、国に過去にやったことを認めさせないといけない」
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夏祭りから1週間後。畑山さんは依頼された講演のため、中村市の公民館にいた。数百人の聴衆を前に、体験をつづった原稿を読んだ。
畑山さんの話にじっと耳を傾け、ハンカチで涙をぬぐう女性がいた。だが同じ会場に、うつむいて文庫本を読みふける男性もいれば、いすにもたれて居眠りする男性もいる。
孤児たちはなぜ今、国を相手に裁判を起こしたのか。孤児たちを追い詰めたものは何だったのか。国の無策を許してきたのは誰なのか。
高知市竹島町の高橋公子さん(66)は、約20年前に単身で帰国した。「経済的に豊かな日本なら子どもの将来にもいいだろう」と、少ない給料で働き、ためたお金で子どもたちを呼び寄せた。
しかし高橋さんは今、自分の死後、日本に残る家族のことが心配でならない。日本語を話せない夫は一人でどうするのか。職に恵まれない子どもの生活は…。つらくて、悲しいことばかりだった人生。その果てに、孤児たちの多くは自分のことだけでなく、周りの人の行く末に心を痛めている。
畑山さんの声が会場に染みる。「孤児のことをもっと大勢の人に知ってもらいたいのです」
孤児を追い詰めたもの。それは私たちの無関心ではなかったか。(社会部・芝野祐輔)
=おわり
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