平成2年10月。埼玉県内にある旧東武鉄道廃線跡の草地で、女性=当時(46)=が包丁でのどを刺して死んでいるのが見つかった。女性は中国残留孤児。その1年余り前に中国人の夫と養母、子ども2人とともに永住帰国していた。
遺体発見を伝える当時の小さな新聞記事は、女性が日本語をあまり話せなかったことや、中国語で「死にたい」と書いた遺書があったことなどを淡々と伝えている。
【写真】30年近く帰国者を支援してきた渡辺さん。訴訟について「これが人生最後の仕事になる」と言う(高知市桜馬場)
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孤児やその家族たちの自殺は、これまで何回か報じられている。例えば昭和57年には山形県で、その翌年は愛知県で悲惨なケースがあった。
厚生省(当時)は62年までに、少なくとも7件の自殺を把握している。幼いころから想像を絶するつらい経験を重ねた孤児たち。耐えて生き延び、ようやくたどり着いた母国で、なぜ自ら命を絶たざるを得なかったのか。
日本弁護士連合会(日弁連)は59年秋、孤児らに対する国の扱いは人権侵害だと決議。支援の特別立法を求めた。それから約20年。何度も請願や陳情は行われたが、十分な支援策は出されないまま。本県の孤児たちを見ても、6割は生活保護でやっと暮らし、日本語が十分にできない人も多い。
平成14年12月、関東の約630人が国に謝罪と賠償を求めて集団提訴に踏み切った。最終的には全国で約2000人が訴訟に加わる見込みで、県内で準備を進める孤児らもこの集団提訴に歩調を合わせている。約2000人という数字は、帰国した孤児たちの実に8割に当たる。
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「国は孤児が死んでいくのを待つつもりか」。孤児らから「先生」と呼ばれる老人がそうつぶやいた。「県中国帰国者の会」顧問の渡辺亮介さん(82)=高知市桜馬場。怒りの矛先は、集団訴訟に先立ち孤児ら3人が国家賠償を求めた訴訟(13年12月提訴)における国の対応だった。
国は準備書面で「満州は日本とは別の国家だ」とし、孤児たちが生まれたことへの責任はないという主張を展開。年老いた原告関係者の中には亡くなる人も出始めた。そんな中での“引き延ばし”とも思える戦術。県内での提訴へ向けて準備を進めてきた1人として、渡辺さんには許せない姿勢だった。
戦時中、建設会社社員として北京で生活した渡辺さん。身に染みた引き揚げの苦労が、後年の孤児らに対する支援活動につながったという。
昭和63年8月、民間団体が国の補助で県中国帰国者自立研修センター(同市神田)を設立。渡辺さんはセンター所長として日本語教育に取り組んだ。生活相談にも熱心に応じた。しかし国は「帰国者の減少」を理由に補助を打ち切り、同センターは平成11年6月に閉鎖されてしまう。
半年後、渡辺さんは帰国者に呼び掛けて「県中国帰国者の会」を組織。いつも孤児らのそばにいた。近隣住民とのトラブル、職場での差別…。真夜中に電話が鳴り、家を飛び出すこともあった。一昨年、脳内出血で倒れた。それでも支援活動はやめなかった。
県内での訴訟に向け、弁護士に依頼する基礎資料として、孤児一人ひとりから体験や生活状況を丹念に聞き取った。
「国も県も市町村も、誰一人として孤児を顧みない。あまりにも無関心過ぎる。年老いた孤児にこれ以上みじめな思いをさせたくありません」
資金集めで街頭募金に立ったり、企業を回って頭を下げた。そして8月1日、弁護団結成にこぎ着け、今は提訴へ向けた最終準備をしている。
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資料や書籍に囲まれた客間。渡辺さんはじっと目を閉じる。「本当はこんなことしたくない。自分たちが住む国を訴えるわけですから…。でもね、孤児にはもう裁判しか残されていないんです」
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