1986(昭和61)年、中国遼寧省朝陽市の「朝陽市評劇団」に人気女優がいた。武桂秋(ウー・クイチィウ)さん=当時(41)。同じ劇団の二胡(にこ)奏者で、夫の趙景明(ジャオ・ジンミン)さん=同(45)=と3人の子どもに囲まれ、心穏やかに暮らしていた。
ある日、同市公安局の職員が訪ねてきた。そして突然、「あなたは日本人だ」と告げた。驚いて天津市に住む母、武桂鳳(ウー・クイフォン)さん=同(56)=に聞いた。「私は日本人なの?」。母は黙ったままだった。
しかし公安局職員が何回か母のもとを訪ね、「これは帰国のための調査。日本人と分かっても絶対に危害は加えない」と説明。ようやく娘が日本人孤児であることを認めた。
母は語り始めた。
【写真】武智さん=左=は看板女優だった養母の武桂鳳さん=右=に救われた(1946年ごろ)
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1946(昭和21)年冬。ハルビンの難民収容所にいた親のない1歳ぐらいの赤ちゃんが、劇団で働く夫婦にお金で買われていった。
赤ちゃんは衰弱し、こんこんと眠るだけ。夫婦は「この子はもう助からない。死ぬ」とあきらめ、米袋に押し込んでベッドの下に放置した。
「捨てるらしい」。うわさは劇団内にすぐ広がり、夫婦の部屋に続々見物人が集まった。みんなは米袋をのぞき込み、「小日本、小日本」とほおをつついた。赤ちゃんは眠ったままだった。
見物人の中に、当時16歳で地元劇団の看板女優だった桂鳳さんがいた。桂鳳さんも同じように、赤ちゃんのほおを触った。その瞬間、赤ちゃんがぱちっと目を開けた。運命のように感じた。桂鳳さんは赤ちゃんを抱き上げた。「この子は私が絶対に助ける」。そう言った桂鳳さんは夫婦にお金を払った。連れ出したその足で、病院に駆け込んだ。赤ちゃんは命を取り留めた。
赤ちゃんを連れ帰った桂鳳さんに、母は驚いた。「16歳でまだ結婚もしていない。母親になれるはずがない。子持ちになれば、女優としての人気も落ちる」と猛反対した。桂鳳さんは頑としてこう言い張った。
「母親になれないなら、父親になる! この子は私が育てる」
母になった桂鳳さんは自分の名をとって赤ちゃんを「武桂秋」と名付けた。大事に育てた。5歳になったころ、母は20歳で役者仲間の男性と結婚。やがて桂秋さんに4人の弟妹ができた。桂秋さんは7歳で初舞台を踏み、母と同じ舞台女優の道へ進む。
自分が日本人とは知らないままの人生だった。41歳。公安局職員に告げられるまでは――。
「日本人だと人に知られ、あなたがいじめられるのが怖かった。自分の子をそういう目に遭わせたくなかった」と母は言う。母娘で泣いた。
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自分が日本人だと知ってから桂秋さんは「実の親に会いたい。日本にいればいつか会えるかもしれない」と考えるようになった。
気持ちを打ち明けると、母は落ち着いた口調で答えた。
「行っていいよ。探しても見つからなかったり、日本の生活に慣れなかったら、帰ってきなさい。ここはいつまでもあなたの家だから」
桂秋さんの目から涙があふれた。「はい、その時は帰ってきます」。その言葉に今度は母が目頭を押さえた。
平成元年、桂秋さんは夫と2人の子を連れて永住帰国する。親は誰で、自分はどの開拓団にいたのか。身元は分からないままだった。母の姓の「武」、高知にちなんだ「智」、そして夫の名の「明」から「武智明子」という名前を付けた。
それから15年。武智さん夫婦は日本語が話せないままで、近所付き合いもない。生活保護に頼る暮らし。
「母への手紙には、日々の生活の具体的な話は書きません。心配しますから…」。武智さんは寂しそうに笑う。
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