ことし初夏の早朝、JR高知駅。中国残留婦人の畑山墨子さん(78)=高知市横浜新町1丁目=は走っていた。午前5時49分。けたたましく始発列車のベルが鳴り響いている。
「畑山さん、心配したぞね。早う、早う」。孤児の支援を続ける渡辺亮介さん(82)=同市桜馬場=が何度も手招きした。2人は改札口を抜け、動きだそうとする鈍行列車に飛び乗った。
車内では、同行の趙景明(ジャオ・ジンミン)さん(62)=同市横浜新町2丁目=も待っていた。うっすら差し込む朝日。数人の若者が寝転がり、中年女性がおしゃべりに熱中している。心地良い揺れ。やれやれと安どした3人は、やがて浅い眠りに落ちた。
【写真】中村に向かうため改札口を抜ける畑山さん=手前左=と渡辺さん(JR高知駅)
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畑山さんの59年前のおぼろげな記憶の中には、列車がある。大陸を走る車窓の向こう、黄色い作物がどこまでも広がっていた。
畑山さんは吾川郡小川村(現・吾北村)出身。20歳の時、父や弟ら3人とともに旧満州(中国東北部)へ渡った。朝鮮から入植地の牡丹江省寧安県まで、南満州鉄道で数百キロ。列車の旅はひたすら長かった。
そのわずか1年足らず後、日本は敗戦し、畑山さんは列車がたどった距離を、今度は徒歩で逃げることになる。
飢え、疲労…。途中、幼い子や高齢者が次々と亡くなった。たどり着いた奉天(現・瀋陽)の難民収容所。畑山さんの父と弟は、うわ言を繰り返しながら死んだ。畑山さんは中国人に助けられたが、日本へ帰れたのは平成元年になってからである。
畑山さんは現在、自助団体「県中国帰国者の会」の会長を務める。県内に暮らす残留孤児、残留婦人は約70人。会員はその家族を含めて約200人に上る。
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一番列車に飛び乗った朝。畑山さんは孤児について多くの人に知ってもらおうと、慣れない講演を引き受け、中村市に向かった。
午前9時すぎ。中村駅そばの公民館には、数百人の聴衆が待っていた。畑山さんは壇上で深々とお辞儀し、きちょうめんな字でつづった原稿を読み始めた。
「7台の馬車にお年寄りや子ども、荷物を載せて出発しました。丘を越え、野道を行き…。ひどい雨で荷物は何倍もの重さになり、動けない馬車の後押しをしました」
過酷な逃避行。幼子を背負う母親が、畑山さんの目の前を歩いていく。子どもはお乳が欲しくて泣きじゃくっていた。
「お乳はもう一滴も出ません。泣くわが子をあやすこともせず、ただ無口に歩いています」
「泣き声は次第に小さくなり、泣き疲れて眠ったと思っていたら、幼い命が母親の背で消えていました。今度は、母親が狂ったように泣きわめきました」
静寂の中に、畑山さんの声が染みる。淡々と語られる絶望と不幸。
「きょうあっても、あすの命は分からない。せめてわが子の命だけはと涙で決意し、中国人に預けていく。親子の悲しい姿を何度見たか」
「中国残留孤児」はなぜ生まれたか。国が犯した侵略戦争の果てに、何の罪もない子どもたちが背負わされたものは一体何か。畑山さんは講演の締めくくりで、言った。
「孤児は、もう黙っていられない」
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第二次世界大戦終結から58回目の初秋。中国から本県に帰国した残留孤児四十数人が、国を相手取って謝罪と損害賠償を求めて提訴する準備を進めている。苦難の末、念願の祖国の土を踏んだはずの彼や彼女たちは、なぜ法廷で声を上げようと決意したのか。何がそこまで追い込んだのか。孤児たちの今を訪ね、その心情を見つめた。(社会部・芝野祐輔)
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