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受け継ごう!桃山茶園 田野中 毎年摘み取りや草刈り
田野中学校に代々受け継がれているもの、それは桃山茶園での茶摘みです。一番茶は4月末に全校生徒、先生、保護者みな総出で摘み取ります。今年は町のお年寄りも「昔取ったきねづか」でたくさん来てくれました。
摘み方は「一芯(しん)三葉」。一芯三葉とは木の先端の芯とその下にある3枚の葉のことで指先で優しく丁寧に摘み取ります。今年は少し育ち過ぎていたので「一芯二葉」で摘みました。芯を摘み取った後のものを一・五番茶といい、5月中旬の摘み取りです。葉も少し成長しているので、一番茶に比べ収穫量は増えますが、味はやはり一番茶に分があります。
茶園の仕事は茶摘みだけではありません。春先と夏休みには茶園の草刈りもします。これがなかなかの重労働で、終わるころには軍手が緑色に染まるのです。バッタやカエル、ヘビ、野ウサギまで飛び出します。
お父さんたちもやったという桃山茶園の歴史を知るために、その当時、田野中学校に勤務していた北川道男先生にお話を伺いました。
お話によると、桃山は戦時中は芋畑でしたが戦後、勤労生産学習のためお茶の木を植えました。段々畑だったこと、霧が発生しやすい所だったことなどがその理由のようです。今もあるセメントの道や物置小屋もそのころの先生や生徒が総出で作ったと聞きました。
以前は学校に製茶工場もあって、先生たちが毎日交代で機械を操作していたそうです。今は安芸市の東川で製茶してもらったのを手分けしてふくろ詰めし、町の人たちに買ってもらっています。
収益金は、修学旅行や社会見学のお小遣いとして使えるのが始めたころからの習わし。だからお茶を摘む手にも自然と力が入ります。
昭和29年の開設だから今年で48年。「おまん茶摘みやったか」「おお、やったやった」。この一言で老いも若きも一つになれる田野中卒業生。この伝統をこれからもずっと引き継いでいってほしいと思いました。
【写真】茶摘みを体験する生徒たち(田野町の桃山茶園)
(小山香奈、牛窓未智記者)
田野中生の誇り ぴったり100歳 金のやん 元気な語り部
明治34年生まれの西山金之助、ちょうど100歳。私のひいじいさんです。「金のやん」の愛称で親しまれ、今も大変達者です。田野町ではちょっとした有名人らしく、「金之助さんのひ孫かえ、大きゅうなったねえ」と知らない人にもよく声をかけられます。
とても話し好きで、自分のことなら一日中でも話していそうな勢いです。ただし、昔の言葉で話すので、さっぱりわからんというのが本音です。
よく話しているのが次の話です。
「わしが小若衆(こわかいし)のころのある晩のこと。けち火が三宝さまの方から一つ、羽根岬の方から一つ飛んで来て、奈半利の川の口へ集まって、パッパパッパ光っちょいて、それがまた分かれて飛んで行ったそうな。現代の人はそんなこたぁあるか、と言うけんど、わしらあの年格好の人間はだれもが経験したことじゃ」
このように数少ない語り部の1人で、ひ孫の1人としてとても誇りに感じています。
(西山薫記者)
元祖ライオン浜口雄幸邸 大正期の趣残る
「ライオン」といっても小泉首相ではありません。浜口雄幸は、吉田茂とともに高知県出身の総理大臣。こちらが「元祖ライオン」なのです。
明治3年、高知市の旧池村東孕唐谷に水口家の3男として生まれました。兄弟も心配するほどの勉強家で、優秀な中学時代の雄幸を知った旧田野村の浜口義立に見込まれ養子となり、後に一人娘の夏と結婚しました。
昭和5年、彼の政策に反対する右翼青年の凶弾に重傷を負い、翌年容体が急変し帰らぬ人となりました。
奈半利川近くにある浜口邸は、現在観光施設兼地元の小中学生の自学自習の場として活用されています。明治、大正時代のたたずまいを残す浜口邸にぜひ1度おいでください。
(西尾拓哉、山本邦光、平瀬大祐記者)
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