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阿佐、宿毛両線の運営を本来の目的として設立した第三セクター「土佐くろしお鉄道」だったが、自ら社長に就いた知事の中内力(故人)には、もう一つの考えがあった。国鉄分割・民営化後、新会社へ引き継がれる見通しのなかった中村線を、進んで「くろ鉄」で引き受けることを国に訴え、宿毛、阿佐両線の工事の同時再開を取り付けることだった。
昭和六十一年七月、中内は阿佐線建設促進期成同盟会会長の安岡一(元県議、故人)、宿毛線建設促進同盟会会長の林遉(前宿毛市長、故人)らを伴い、運輸省(現国土交通省)に陳情した。
このとき同省側が初めて国の方針を明らかにする。「本年度の二線の同時着工はできない」。それは「一線に絞れば建設再開を認めるが、二線同時にこだわれば両線を認めない」を意味した。
当時は限られた鉄道新線の予算配分を求め、智頭線(鳥取・岡山・兵庫)、樽見線(岐阜)など他県のライバル線と激しく競合していた。
「二兎(と)を追う者は―」の状況に追い込まれた県は、苦悩の選択を迫られる。中内らは協議の結果、残工事費が少なく、中村線と一体運行できる―などを理由に宿毛線優先の方針を固めた。
だが、残る阿佐線の工事再開を保証するものはない。「宿毛線先行」を表明できないまま、国への回答期限が迫った同年九月九日、中内はある作戦に出る。
一緒にどうですか
「藤田さんに頼みに行ってくれ」。中内は当時の県企画部長、長尾謙一郎(70)に指示した。「藤田」は全国農業協同組合中央会(全中)の会長を務めた藤田三郎(故人)。長尾は既に要職を退いていた藤田の自宅を訪ね、運輸相への取り次ぎを依頼する。
「分かった」。藤田は即座に大臣秘書に電話を掛けた。藤田は、当時、国鉄改革を陣頭指揮していた運輸相、橋本龍太郎と全中時代などを通じて親しかった。「高知の藤田じゃが、大臣に会わしちゃってくれんかのう」
二日後、藤田も陳情に同行し、同省の控室で待った。すると突然、オールバックの髪にワイシャツを腕まくりした男が入ってきた。「おじいちゃん!久しぶり。どうぞどうぞ」。橋本だった。
歓談の後、藤田は「知事も困ってます。東の線もよろしく頼みます」と切り出した。橋本は「私の地元(岡山)も二線(智頭、井原線)あります。来年一緒にどうですか」。その場には阿佐線期成同盟会会長の安岡も同席していた。
「決まりだ」。長尾は確信した。同十八日開かれた同盟会の臨時総会に臨んだ長尾は橋本の政治発言こそ口に出せなかったが、「阿佐線再開は県が責任を持つ」と自信をみなぎらせ、理解を求めた。同盟会はこの「県の確約」を前提に宿毛線先行を了承した。
しかし、このときはまだ誰も、「阿佐線は室戸まで」を疑っていなかった。
【写真】昭和62年2月5日、橋本龍太郎運輸相=左=から土佐くろしお鉄道の免許状を交付される中内力知事。前年の"橋本発言"が宿毛線先行着工の決め手になった(運輸省)
(文中敬称略)
(平成14年6月12日付朝刊掲載)
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