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国鉄合理化の嵐が吹き荒れ始めた昭和五十年代後半、知事は既に溝渕増巳(故人)から中内力(同)にバトンタッチし、二期目に入っていた。
県議会の国鉄地方交通線対策特別委員会は五十八年二月定例県議会で、「阿佐、宿毛両線の建設は第三セクター以外にない」と最終報告。同年九月の県議会は、これを受けて「鉄道議会」の様相を呈した。
また国鉄再建法と相前後して、本県が鉄道併用橋を「県是」とする本四架橋・明石―鳴門ルートが、道路単独に計画を変更。四国循環鉄道で関西直結という夢は、有名無実化しつつあった。
中内は回顧録「県庁わが人生」(高知新聞社刊)で、阿佐、宿毛両線の工事再開に向けた「秘策」を述べている。
中内と当時の企画部長、山本卓(72)=元副知事=が決断したのは、「両線の運行に当たる第三セクターをまずつくり、これを武器に運輸省に工事再開を迫る」ことだった。当時、工事再開の見通しは全くなく、山本は「賭けみたいなものですよ」と進言した。
昭和六十年になると、安芸、宿毛両市をはじめ関係市町村に、第三セクターの出資金を予算化する動きが出てきた。県としても、「賭け」に打って出るかどうかの決断を迫られたことになる。
意外な反応
当時、企画部で鉄道を担当していたのは空港輸送課(現交通政策課)。新谷正雄(62)=元県理事、前室戸市助役=や星沢照雄(57)=現県海洋局長=らが現場の実務を担っていた。
新谷は、当時の運輸省(現国土交通省)の厳しい姿勢を鮮明に記憶している。鉄道の元締め的存在は、公団管理官というポストだった。
「六十年度当初予算の知事査定直前、上京して公団管理官に『第三セクをつくりたい』と打診した。すると管理官は『高知は運輸省に弓を引くのか。やれるものならやってみろ』と、すごいけんまくだった。同省の許認可事項に、県が先走ったことが気に入らなかったのだろう」
結局、県は当初予算への第三セク出資金の計上を見送ったが、九月議会には計上。それでもまだ、予算を執行するかどうか迷っていた。
六十一年二月、新谷らは再び上京し、既に別のポストに異動していた前管理官に会う。ところが今度は意外な反応が返ってきた。
県は当時、阿佐、宿毛両線で別々の第三セクを考えていたが、前管理官は「本当に二線やりたいのなら、会社は一つにすべきだ。二つの会社では一線は切られる可能性がある」とアドバイスまでしてくれたのである。
「会社は一本化。よし、これでいける、とうれしかった」と新谷。慎重だった県も一気に走りだし、六十一年五月、第三セクター「土佐くろしお鉄道」設立。会社の名称は、中内の「くろ鉄なら黒字よのう」の一言で決まった。
【写真】「土佐くろしお鉄道」設立後、事務局の県交通対策課入り口にプレートを付ける中内知事(昭和61年5月1日)
(文中敬称略)
(平成14年6月11日付朝刊掲載)
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