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「四国循環鉄道は十年間より早く完成」「工事の中断はない」。昭和四十年の阿佐線起工式に来高した日本鉄道建設公団総裁、太田利三郎(故人)はそう豪語したものの、阿佐線のその後は太田の言葉とは逆へ逆へと進む。
工事は始まっても、あっちでぽつり、こっちで少しのスローペース。いわゆるAB線(地方幹線・地方開発線)は政府出資の無償資金が財源で、国の財政難に加え、全国には多くの「政治路線」がひしめいていた。
この状況に、最もじりじりしていたであろう本県の政治家に、安芸郡芸西村出身の県議、野崎利光(故人)がいる。
昭和二十六年から四十六年まで県議連続五期、副議長も務めた野崎は「東部総裁」の異名を持つ。県東部の開発、中でも阿佐線の建設に執念を燃やしたからだ。
現在、四国銀行に勤務する長男の英郎(56)は
「おやじは四国循環鉄道の実現に、本当に政治生命をかけていた。早く開通しないと、住民に申し訳ないといつも言っていた」と振り返る。
三十八年、沿線市町村を束ねる県東部開発促進協議会を立ち上げ、会長に就任。鉄道新線建設全国協議会(鉄建協)の常任理事も十年間務めた。
だが一方で、野崎ほど新線建設の難しさを痛感した政治家もいまい。野崎は自著「県議の足跡」の中で「予算の増額は困難を極めた。一喜一憂の心境であらゆる手をつくした」と述べている。
忍び寄る影
だが、阿佐線の鈍行工事の背景には、国の予算配分や用地買収の遅れ以外に、当時の県政をめぐる事情も絡んでいた。三十年十二月から五期、知事を務めた溝渕増巳(故人)は回顧録「県政二十年」(高知新聞社刊)で、知事就任直後の状況を次のように述懐している。
「北幡線か、海岸線か―県西部における鉄道ルートをめぐる“南北戦争”は川村(和嘉治=故人=)県政の置き土産であり、ますます激化していた」
当時、土讃線はまだ窪川止まりで、四国循環鉄道は幡多郡西土佐村江川崎への窪江線か、中村線かの選択で、両沿線が猛運動を展開していた。溝渕は参院議員の寺尾豊、元首相の吉田茂(いずれも故人)への根回しで「同時着工」による問題解決を狙う。
その結果、中村線は昭和三十八年に佐賀まで、四十五年には中村まで全通した。窪江線も四十九年に開業し、既に運行していた宇和島線(宇和島−江川崎)と合わせて予土線となった。
当時、県政の鉄道熱は明らかに西に軸足を置いていた。野崎は県議会の質問戦で、溝渕に「県政は今や西高東低なり」と迫り、それ以来この言葉が使われだした、と自著で語っている。
しかし、野崎が阿佐線の工事の遅れにじれ、溝渕が「鉄路は西へ」と喜んでいる間にも、日本の鉄道にはもっと大きな影が忍び寄っていた。
【写真】阿佐線の工事は当初の予定より大幅に遅れた。あちこちで寸断され、後に残がいのような姿をさらす(昭和54年9月、安芸市伊尾木付近)
(文中敬称略)
(平成14年6月9日付朝刊掲載)
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