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七月一日、全国最後のAB線(地方開発・地方幹線)として「ごめん・なはり線」(後免−奈半利間、四二・七キロ)が開通する。この名称は公募で決まった、いわば愛称だ。日本鉄道建設公団は、あくまで工事認可された路線名「阿佐線」で通している。
高知と徳島を結ぶから「阿佐線」。室戸回りでぐるりと四国を巡る循環鉄道の歴史は古い。JR四国が刊行した「四鉄史」には、「大正八年にときの政友会、憲政会、国民党の三派から、四国循環鉄道建設議案が提出された」とある。
鉄建公団大阪支社の資料でも、阿佐線の歴史は大正十一年の「予定線」編入に始まる。これは当時の鉄道大臣、大木遠吉(故人)が現地視察に訪れた際、県や地元が建設を要望したことが契機となっている。
日本中が「おらが鉄道」を熱望した時代。全国にどれほどの「予定線」があったのかはともかく、高知、徳島両県に、にわかに建設促進の機運が高まった。
そのころ高知の鉄道は大正十三年、土讃線の前身である高知線(高知−須崎間)が開通した程度。阿佐線は何度か調査に着手したものの、満州事変や敗戦などで日の目を見ずに終わった。
戦後の再燃
夢が現実味を帯び始めたのは、やはり戦後になってから。復興の機運とともに、地元に建設を求める動きが再燃する。昭和二十七年、四国循環鉄道の「高知東部線」の実現を求める陳情が、参院議員の寺尾豊(故人)を会長とする期成会から鉄道審議会委員に提出された。
同二十九年の安芸郡芸西村発足とともに村長を十一期連続で務め、後の阿佐線建設促進期成同盟会副会長として沿線の歴史を見続けてきた岡村雅夫(83)=同村西分=は、現在でも言う。
「いまさら夢を言ってもいかんが、当初の室戸回りの鉄道の気持ちだけは捨てられん」。鉄道による県勢浮揚を狙った知事の溝渕増巳、中内力、期成同盟会長として尽力した室戸市出身の県議、安岡一ら多くの人々が、奈半利までの開通すら見届けることなく世を去った。そのことへの思いがあろう。
県や地元の猛陳情もあって、阿佐線は三十九年四月、運輸大臣が基本計画を公団に指示。もちろん起点を南国市後免、終点を徳島県海部郡牟岐町とする四国循環鉄道の一環としてだった。
翌四十年四月十日、安芸市で日本鉄道建設公団初代総裁の太田利三郎(故人)を招いて、盛大な起工祝賀会が行われた。その前日、県庁で記者会見した太田は、次のように語っている。
「四国循環鉄道は鉄道建設審議会が政府に建議した十年間より早く完成するだろう」「公団としては、途中で工事を休むようなことはしない」
リップサービスもあったのだろうが、地元の期待をかき立てるに十分な言葉だった。
【写真】阿佐線の起工祝賀会でくわ入れする日本鉄道建設公団の太田利三郎総裁(昭和40年4月10日、安芸市で)
(文中敬称略)
(政治部取材班)
(平成14年6月8日付朝刊掲載)
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