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村を丸ごと売り出す
「一番大事ながは、危機感ですよ。それをばねに、目の前にある現実に逃げんと立ち向こうていく。村おこしはその繰り返しやないろうか」
ユズ加工品の生みの親、馬路村農協の東谷望史生産加工課長(48)は話す。
東谷課長がユズの担当になったのは昭和五十年代半ば。激化する産地間競争の中で農協は、常に赤字を抱えていた。
「うちはユズの量も栽培面積も少なかったし、ほかの農協からは相手にもされんかった」
当時の兼業化率は九四%。九七%を森林が占める村では、農業で生計は立てられず、村の農業をどう導くかという将来像もなかった。かといって栽培面積を増やしたくても金がない。行き詰まりを感じていた。
当時の組合長がふと漏らした一言が、東谷課長の心を揺さぶった。
「何とか集出荷施設の有効活用ができんか」
そのころユズは玉出荷と搾汁が中心で、施設を使っていたのは一年のうち二カ月ほど。あとの十カ月は遊ばせていた。
「一年中、物を作り、物を売る仕組みができんろうか」。東谷課長の試行錯誤の毎日が始まった。
大手醸造メーカーへの業務用販売も、一方では続けていた。ユズが豊作になればすぐに買いたたかれる。原料供給産地は、いつまでたっても日が当たらない裏ブランドだった。
「最終商品を作り、小そうてもえい、消費者に直接届けるメーカーにならんといかん」
東谷課長は商品開発をする一方、営業のために県内のホテルや土産物店を回りに回った。全国の百貨店の物産展で販売の勉強もした。そしてたどり着いた結論が東京進出だった。
「田舎にこだわる」
昭和六十一年、かつおエキスを加えたポン酢しょうゆ「ゆずの村」を開発。二年後の六十三年には大手百貨店の「日本の一〇一村展」で最優秀賞を受賞した。馬路のユズが、全国に認められたのだ。
「うれしかった。やっと自信みたいなもんができた。売り上げは一億円ほどでまだ赤字。けんど、このころから物の売れ行きが右肩上がりになった」
その前年、県内産のユズが大豊作となり価格が暴落した。「価格を戻すには、原料が足らんなるくらい消費を拡大する商品を作らんといかん」。また、課題が見えてきた。
このころ東谷課長は、その後の商品イメージをつくる上で、強い味方となる村外のデザイン事務所のメンバーと出会う。
ユニークなアイデアに触発された。単にユズ商品を売るのではなく、「村を丸ごと売り出す」発想に変わっていった。
そして、百円ドリンク「馬路村公認飲料・ごっくん馬路村」が完成した。商品のラベルやポスターのモデルには、村の子どもやお年寄りを起用した。
だがまだ、「田舎にこだわり、田舎を売る」ことへの抵抗感があった。
一本の電話がかかってきた。相手は横浜市在住の女性。商品の注文だった。「今度、馬路村に遊びに来てください」。東谷課長は軽い気持ちで言った。ところがその女性は「先日、村を訪れました」という。
「まずい。こんな、なんちゃあない村に来ちょったなんて…」。受話器を握り冷や汗をかいた。意外にも返ってきた答えは「良かったですよ。何にもなくて。自然のまんまの田舎のところが…」。
都会の人が求めているものが見えてきた。「これでいける」。自信が確信に変わった。
【写真】「田舎の良さ」をアピールすることで、ポン酢しょうゆやゆずジュースが大ヒット。馬路村農協は右肩上がりの成長を続けている(同村馬路のユズ加工場)
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