昭和二十一年の高知に話を戻す。
敗戦から四人目の高知県知事、西村直己氏(のち衆院議員に転じ、防衛庁長官、農相)は就任二カ月後の十二月二十一日に大きな試練を迎える。
同日未明に起きたマグニチュード(M)8.0の南海大地震。この時、米英豪の進駐軍は目覚ましい活躍を見せた。県が編さんした「南海大震災誌」からその一端を拾ってみる。
(1)毛布九千枚、上衣とズボン各七千着、食料百トン、出産用セット、薬品、燃料などを放出。(2)英軍の建設部隊が来高し道路や橋、堤防を修理。(3)工事の際、高知軍政部が海陸から石材などを搬入。(4)進駐軍医療班が県の各所で活動。(5)交通機関の不通を補うため、英軍がトラック四台を提供して旅客を輸送。(6)十万人を一カ月治療できる医療品を十三組海路搬入――。その後も食料、衣料、乳児用品などが海と空から次々と高知に運び込まれた。
県渉外課にいた大町行治さん(79)はこの時のことを鮮烈に覚えている。
「身の回りに物のないときやったき、そらもう驚いたというか、すごかった。どんどんどんどん物資が来ましたき。物量を見て『こりゃあ日本が負けるはずじゃ』と思うたねえ」
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当時、占領政策を実行する高知軍政部は米軍が担い、朝倉と日章の兵舎には英軍が入っていた。
日章で通訳業務に携わっていた堀内泉さん(81)は、大地震直後の英軍の様子を覚えている。
「英軍は地震の経験がないんですよ。だから狼狽(ろうばい)しよったですねえ。とにかく初めての経験ですから。『恐怖の一夜を過ごした』というようなことを言いよったです」
ちなみに「南海大震災誌」によると、日章兵舎の損害状況は<壁面三千五百坪(一万一千五百五十平方メートル)剥離(はくり)、棟屋根、煙突、窓ガラス等に相当の損害あり。配電設備破損し、トランス倒壊十三ケ所>となっている。
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目を見張る援助の半面、進駐軍は占領者としての厳しい素顔も失っていなかった。
高知市洞ケ島町の元県議、大村之彦さん(76)はピストルを突きつけられた体験を持っている。
当時、日本では労働運動が盛り上がっていた。象徴的な動きが二十二年二月一日に計画されたゼネスト。これに対し、GHQはマッカーサーの名でスト前日になって中止命令を出す。
ところが…。大村さんらはすんなりと従わなかった。当時、大村さんは国鉄の労組で地区の青年行動隊長を務めていた。
「二月一日。十人がトラックに乗り『一歩後退、二歩前進、闘いはこれからだ』と書いた旗を立てて、『ゼネストはやまったがストライキは独自でやる』と演説して回ったんです」
一日中それをやって、午後五時すぎに高知駅の組合事務所に帰ってきた。と、駅前派出所の警官が来てこう言う。「ちょっとRTOまで下りてくれ」。RTOとは大きな駅に置かれた占領軍用事務所のこと。高知駅の場合、組合の階下がRTOになっていた。
「行くと、中尉の肩章を着けた米軍人がいきなり自分に拳銃(けんじゅう)を突きつけたんです。そしてぺらぺらしゃべる。中身はさっぱり分からない。『ああ、おれもせっかく戦争から生きて帰ってきたのに、ここで撃たれるのか』と思いました」
大村さんの話を続ける。
【写真】南海大地震直後の高知市の電車通り。巨大地震は進駐軍をも震え上がらせた(詳しい場所は不明。スタンレー・中上さん提供) |