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高知市大空襲で弟や妹四人を失った高知市種崎の竹田純子さん(70)にとって、戦争の手記をつづり、「語り部」をすることは、多くの人がそうであるように、慟哭(どうこく)のときを思い起こすものだった。ペンを走らせ、台本をまとめるうち、涙が幾度もほおを伝った。
「主人に『そんな苦しい思いをしてなぜ語るんか。やめなさい』と怒られました。私も頑固やったき、『いや、やる』って意地にさえなっちょった。今はそんな心配してくれる主人もおらんけど」とさみしそうに笑った。
語ること、つづることを弟や妹への鎮魂歌、そして戦火から命を守ってくれた父や母への感謝と思い続けてきた竹田さんが「語らない夏」を迎えるようになったのは数年前だ。
高知市の依頼で大空襲の手記を書き、市の広報紙に掲載された。それを読んだ竹田さんと同世代の人から思わぬ言葉を聞いた。「ようあんなつらいことを平気で書ける」
「平気で…」――胸が張り裂けそうになった。
過去のつらい戦争体験を語らず、そっと胸にしまう気持ちは分かる。しかし、「語る夏」の意味を一人でも多くの人に、子どもたちに知ってほしかった。
「けんどねえ」。それまで穏やかに語ってきた竹田さんの目が急に鋭くなった。「まさか、弟のことで言われるとは思わんかった」。声が震えた。
ある日、電話を取ると、年配の男性の声がした。
「あんな手記をなぜ書くんか。私はあんたの弟さんが倒れていた中の橋通をいまだによう踏まん」
中の橋通は弟が空襲で死んだ場所。男性は弟を知っている口調だった。「いやなことを思い出させてしまったんでしょうかねえ」。竹田さんは目頭を押さえた。
マスコミの取材を受けるたびに、いろんな人から「夏になると有名になるねえ」「テレビをつけるとあんたがいつもおる」、そして「戦争ばあさん」とまで言われた。
「もう十分…」
竹田さんは「語らぬ夏」を迎えるようになった。
□ ■
竹田さんはいま、戦争体験を人前で話したり、マスコミの取材を受けるのを極力、断り続けている。そんな中で、今回の取材を受けていただいたのは、戦後五十五回目の夏、そして、二十世紀最後の夏という区切りが、竹田さんの平和を願う心を揺さぶったからだろうか。
取材中、竹田さんは「あなたみたいな若い人に言っても分からない」と何度も言った。
「いつまでも過去のことを引きずるな。悲惨な戦争の話など聞きたくないという若い人も多いと思うんよ」
「けんどね、忘れようと思っても忘れられん。忘れられるはずもない」
竹田さんは「写真だけは勘弁してくださいね」と言葉を添えた。
□ ■
竹田さんは七月四日の高知市大空襲の追悼集会に参加した後、空襲の悪夢がよみがえり、眠れない日々が続いた。
すでに亡い父や母、四人の弟や妹。楽しいはずの思い出もあるはず。しかし、脳裏に浮かばない。
「破傷風で死んだ妹のことで、父はもう少し早く血清注射を打てば助かったと、とても後悔していた。医者に言わせれば、とても助かるような状態ではなかったようですけど、自分が少し、休んでしまったことをただ責め続けていた」
「父の死んだのは三月十日、私が足を切断したのも三月十日でした」
そして、子供四人を一度に亡くした母を思う。気丈な母親だった。
「でも、死んだ弟や妹のことに思いをはせた時、泣いた。私たち三人がいるよ、と声を掛けるしかなかった」
竹田さんは今、気持ちを整理するかのように、新しいノートに手記を書き始めた。亡くなった弟たち、両親への感謝の言葉などをつづっている。
「ノートはお見せすることはできません。自分の心にしまいます」
竹田さんにもう「語る夏」は来ないのだろうか。
(社会部・地域報道部取材班)
=おわり=
【写真】55回目の夏。平和が続く中、戦争を知らない世代は7割を占めるようになった(高知市内、本文とは関係ありません)
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