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「右足を見てください。げたを履いちょったから、鼻緒の部分だけきれいな皮膚でしょう」
高知市種崎の竹田純子さん(70)は、体のあちこちに残る高知市大空襲のやけどのあとを、ズボンやTシャツのそでをめくって見せた。左足はやけどの後遺症で二十年ほど前に切断。義足を付けている。
「やけどはいえても、心の痛みは消えん。五十五年たっても、空襲のことはよう忘れません」
竹田さんはやけどをなぞりながら、高知市大空襲の体験をゆっくりと、一言一言かみしめながら語り始めた。
高知市大空襲。昭和二十年七月四日未明、高知市はB29爆撃機の波状攻撃を受けた。高知市史は死者四百一人、負傷者二百八十九人、行方不明二十二人と伝える。
当時、竹田さんは十六歳。五人の弟と一人の妹、両親の九人家族で、帯屋町に住み、父が新京橋商店街で経営する写真館を手伝っていた。
深夜一時すぎ、空襲警報は解除されていた。突然、「ゴー」という爆音。外を見ると焼い弾が雨のように降っていた。「みんな、はよう起き。爆弾が落ちゆう」と叫びながら、そばにいた四歳の弟を背負って外へ飛びだした。ほかの弟や妹、両親とは散り散りになっていた。
町は火の海。弟は泣き叫んだ。転んだ。弟は頭を強く打ったようだった。竹田さんの手のひらは皮がずるりとむけていた。襲いかかる火の粉。やけどをしていることはわかっていた。しかし、痛みよりも、「弟を助けなければ」という思いでいっぱいだった。
現在の追手前高校の時計台の下まで逃げ込むと、そばにいた人に弟を抱きかかえてもらった。ほっとして、そのまま意識を失った。
懸命に助けた弟。しかし、翌朝、弟は突然、息を引き取った。「私が転んだから…。頭を打ったから…」。竹田さんは言葉をのみ込んだ。
「地獄の夜」に、生を絶たれたのは四歳の弟だけではなかった。
十四歳の弟は中の橋通で焼い弾に倒れた。十歳の弟はひどいやけどで死んだ。妹も傷口から破傷風に。血清注射も間に合わなかった。
竹田さん自身、生死の境にいた。やけどは体の三分の一に及んでいた。病院にいつ、運ばれたかも、時間がどれだけ経過したのかさえもわからない。ただ、もうろうとした意識の中で聞いた「この子、朝まで持つろうか」の声を今も鮮明に覚えている。
包帯も薬もほとんどない病院。重傷者だけが増えていく。「こんな所におったら死んでしまう」と見かねた父が病院から連れ出し、親せきの家で看病してくれた。父はどこからか包帯を手に入れてきた。しかし、懸命に巻いてくれた包帯からはうみがしみだし、うじがわいた。
自分で体を起こせるまでに回復したのは九月になってからだった。このことも奇跡だった。
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ことし七月四日、高知市北中山で行われた高知市大空襲五十五周年の追悼集会(平和資料館「草の家」などで構成するピースウェイブ実行委員会主催)。急な山道をつえをついて、懸命に歩く竹田さんの姿があった。
北中山は身元不明の空襲犠牲者が多数埋められたと伝えられる。「私も病院でほったらかしやったら、身元不明の遺体になっちょった…。今あるのは両親のおかげよ」。空襲の犠牲者は運ばれた病院で次々と死んでいった。自分がだれかを告げることができないまま亡くなった人もいる。
「無念でしたろ」「生きたかったでしょう」
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竹田さんは両親への感謝の気持ち、悲惨な戦争体験を語り継ぐため、手記をつづり、小中学校では「語り部」も務めた。そんな竹田さんが数年前に、突然「語る」ことをやめてしまった。
【写真】竹田さんも参加した高知市大空襲の追悼集会。どんな思いが竹田さんの胸によみがえったのだろうか(高知市の北中山)
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