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語る夏語らない夏 <7> 続き

長崎被爆者(下)  胸に残る亡き夫の言葉

「生きてる人が大事だ」
 高知市長浜の雪蹊寺住職、山本玄宙さん=ことし四月、七十二歳で死去=が多くの人に語ることのなかったナガサキの被爆体験を、妻の元子さん(60)が語る。

亡き玄宙さんが被爆者手帳取得へ集めた資料を見ながら、玄宙さんの代わりに被爆体験を語る元子さん。「私が手帳の代わりに…」。決意は固い(高知市長浜)  「鉄道が復旧するとすぐ高知へ帰ろうと汽車に乗ったそうです。被爆の日から二日か三日待ったという話でしたが、その間、原爆で焼け焦げた鶏や、食べられそうなもんなら何でも拾って食べた。やっとの思いで高知駅へ、雪蹊寺へ帰ってきた時、私の祖母が和尚の靴をはさみで切ったそうです。たくさんのくぎを踏んで脱げなくなっていたんですね。うんでいた傷へはおきゅうを据えたそうです」

 時々、肩を震わせ、苦しそうに語る元子さん。しかし、元子さんは決意していた。「人に伝えることが私の役目」だと。

     ■  □

 玄宙さんは被爆者手帳を取得できずに亡くなっている。それは体に大きな後遺症が残っていなかったせいではない。

 早くから県内の被爆者たちに「手帳を取るように」と勧められていた。元子さんも同じ思いだった。「被爆者手帳というのは被爆者として保障されるためだけのものじゃないんです。原爆の記録なんです。大切な戦争の記録。ぜひ取ってもらいたかった」

 しかし原爆が落とされた一九四五年八月九日、またはその直後、玄宙さんが長崎にいたと証明してくれる人はいなかった。それが手帳取得を阻み続けた。

 九四年八月、戦後五十年近くもなって、やっと希望の光が見え始めた。元子さんも実行委員を務めた高知市での「長崎原爆被災展」に、長崎原爆被災者協議会の理事が訪れた。夫が被爆者手帳を取れないでいる話を伝えると、協力を申し出てくれた。

 「大変、骨を折ってくれましてね、こんな証明書が発行されたんです」。元子さんが差し出したのは、玄宙さんが徴用された三菱長崎製鋼所のカードの写し。葉書の半分ぐらいの大きさの紙に玄宙さんの元の名前「水谷勉」、「昭和十九年一月十一日入社」「昭和二十年八月二十日解雇」という内容が示されていた。

 「取得へ大きく前進したなと感じました。その上、全国の被爆者に配られる新聞のようなもので『水谷勉を知りませんか』と呼び掛けてくれたんです」

 しかし呼び掛けに返事はなく、証人は現れなかった。

 「和尚はおっしゃいました。『それ(手帳)はもういい』と。私、その翌年に長崎へ行ってるんです。地元の長浜の人との団体旅行で。長崎でもいろんな人に会って、お知恵を貸していただこうとしたりしたのですが…。私さえもっと動いていれば…手帳はもらえたのかもしれません」

 元子さんは自分を責めていた。「被爆者手帳の代わりに、戦争の証(あかし)に、少しでも私が和尚のことを伝えていこう」。

     ■  □

 九歳から雪蹊寺に預けられ、育てられた玄宙さん。住職の娘、元子さん。同じ屋根の下でまるで兄妹のように暮らしていたころも、六一年に結婚した後も、玄宙さんからこみ入った話は聞かなかった。しかし、二人で歩んだ日々を振り返ると、そこには玄宙さんのいろんなつぶやきがあった。

 原爆に関する番組を見た時の言葉。「本当にこれと一緒じゃ。皮のむけた人とたくさん出会った。川という川は、水を求めてきて亡くなった人の山だった」。海外紛争のニュースには「戦争の好きな民族かな…」と悲しんだ。ある時は徴用先の製鋼所で、朝鮮人たちが差別的な扱いを受けていたと漏らした。どのつぶやきにも戦争を、原爆を許さないという強い想(おも)いがこもっていた。

 元子さんは急に思い出したようにこう言った。

 「僧りょとして人に説教をする人ではなかったですね。でも常々よく言ってた言葉があるんです。『生きてる人が大事だ』って」

 しばらく、静寂があった。

 「そんな和尚ですからきっと分かってくれる。原爆の恐ろしさを折あるごとに、子どもたちに語りたいと思います」

 元子さんはそう言って、玄宙さんの遺影に目をやった。

 【写真】亡き玄宙さんが被爆者手帳取得へ集めた資料を見ながら、玄宙さんの代わりに被爆体験を語る元子さん。「私が手帳の代わりに…」。決意は固い(高知市長浜)


「語る夏 語らない夏」−目次−

<1>中国残留婦人 <2>ニューギニア戦線(上) <3>ニューギニア戦線(下)

<4>沖縄戦(上) <5>沖縄戦(下) <6>長崎被爆者(上)

<7>長崎被爆者(下) <8>高知大空襲(上) <9>高知大空襲(下)

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