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小さな手帳に日記をつづった。「山の上から海を見ると米軍の艦船で真っ黒。こりゃあ、生きていねん思いまして。通信兵だったから敵の情報もよく分かったし、書きだしたのはそれからです」。高知市神田の野村正起さん(78)は激しい上陸戦が展開された沖縄戦の無線通信兵(一等兵)だった。
所属は陸軍第三十二軍船舶工兵第二十六連隊。総勢千四人の部隊だったが、生き残ったのはわずか百三人。野村さんが知る限り、野村さん以外に本県出身者はいなかった。
激戦を極めた戦地。二十四歳だった野村さんの日記は、米軍艦船を目撃した昭和二十年三月二十三日から、米軍に投降した同年九月十四日まで続く。
四月一日、米軍が嘉手納から上陸を開始。敵の艦砲射撃は日に日に激しさを増した。本島南部に集結していた隊の仲間が次々と砲弾に倒れ、上陸した敵陣に斬(き)り込んでは命を落とした。「米軍が撃ち込む砲弾の量というたらすごかった。反対に隊は弾薬が制限され、どうしようもなかった」
そして五月三日。野村さんの隊は上陸した米軍を寸断させる大規模な作戦を実行したが失敗。たった一日で約六百人もの仲間が死んだ。
「ほぼ全滅でした。それからは『爆弾を背負って戦車に突っ込み、そのまま自爆せよ』というむちゃくちゃな命令。夜は十数人で敵陣破壊に斬り込む作戦の繰り返し。命令は絶対やった。そむくと、隊の中でだれも取り合ってくれなくなると思い、それが皆、怖かった。かなりの人がこの命令で命を落とした」
六月二十二日、日本軍の司令が途絶え、組織的戦闘もできなくなった。部隊は散り散り。数人であてもなく野山をさまようようになった。自決用に使う擲(てき)弾筒のりゅう弾とわずかな武器を背負い、壕(ごう)から壕へと渡り歩いた。もう、米軍がどこから現れてもおかしくない状態だった。
ドーーン。逃げ込んだ壕が米軍に見つかり、手りゅう弾を投げ込まれた。途端に仲間のうめき声。野村さんはたまたま奥の方にいて助かった。「米兵の英語で呼び掛ける声、手りゅう弾の爆音と銃声。ただじっと、息を潜めるしかなかった」
夜を待って壕をはい出した。八人で逃げているのを投光器で発見され、バタバタと五人が撃ち殺された。野村さんはたまたま、少し離れた場所でサトウキビをかじっていて助かった。
別の壕にたどり着いた。水膨れしてハエのたかる死体。「いずれは自分もこうなるろう。おれの人生もこんなもんか」。死体の上に板を敷いて寝た。
のどの渇きに我慢できず、ふん尿混じりの泥水を飲んだ。壕の中で何日も、下痢(げり)と熱に浮かされた。
再び壕を出た。米軍の仕掛けたピアノ線に仲間が足を引っかけ、野村さんは背中を撃たれた。「もういかん。りゅう弾の安全栓を抜こうとすると、不思議と高知の街やらいろんな思い出が浮かんできた」。寸前で仲間に止められ、夜道を何度も転びながら逃げた。壕が見つからないと墓地や草むらに隠れた。撃たれた傷口にウジがわいた。
終戦後の九月十四日、野村さんは破壊された壕の中にいるところを米軍に説得され投降した。日本が無条件降伏したことはその日まで知らなかった。
復員は翌二十一年一月。「高知に着いても本屋で立ち読みしたり、新聞を読んだりでなかなか家に足が向かん。大勢戦死したのに、生きて帰ったことが恥ずかしいと思いました。やっと家にたどり着くと、母がはだしで飛び出してきました。抱きつかれ、泣かれました」
野村さんは、血痕の付いた日記帳を基に一冊の本を出版した。「沖縄戦敗兵日記」(太平出版社)。終戦から二十九年後の昭和四十九年だった。
【写真】沖縄の戦地で書き続けた日記帳を見せる野村さん(高知市神田の自宅)
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