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草木の根ばかり食べ、がりがりにやせこけて、雪山のサラワケット峠(標高四、一〇〇メートル)の山頂を越えた。山向こうのキアリに着くと、上陸時に三千五百人いた兵隊は、死んだり、脱落して、三百人ほどになっていた。
海軍の佐世保鎮守府第五特別陸戦隊の一等水兵だった岡田浩揮さん(79)=高知市福井町=は、撤退の二日目にマラリアの三日熱に侵され、これ以上部隊と行動はできないと、自殺を申し出た。しかし上官や同年兵が担架で運んでくれ、命をつないだ。
ある日中、また命を拾う。キアリから陸軍の徴用船で、北部のウェワクへ逃げる途中だった。
東の雲の上に、日本軍の飛行機が浮かんで見えた。
「友軍機だー。おーい、おーい」。兵隊たちが甲板に並んで手や帽子を夢中で振る。ところが日本軍機ではなく、最新鋭の米軍爆撃機だった。
「入道雲からにゅーっと出てきた時、ああしもた、えらいことになったと。みんな手ぇ振ってましたけね。それにこっちは、一基の対空砲火も、一丁のけん銃もないですけ」
米軍機は低空で船の後方四五度の角度に位置を取り、爆撃態勢に入った。船を襲ってくる爆弾は黒い鳥が飛ぶように見え、シャーッと音をたて、みるみる大きくなって近づいてきたのを覚えている。
「船長さんは父親くらいの年齢でした。必死だったんでしょうな、舵(かじ)をいっぱいに切ると、爆弾はわきにそれて、次の爆弾三発もすぐわきにそれた。水柱が上がって船がどおんどおん揺れましたが、沈まなかった」
米軍機は爆弾を切らしたのか、爆撃はやんだ。しかし去り際、上空から二〇ミリの機銃掃射をけたたましく浴びせた。「やられたやられた」とうめき声が漏れだして、甲板は血の海になった。岡田さんに、弾は当たらなかった。
制空権も制海権も米軍が掌握していた東部ニューギニアで、日中の移動は自殺行為だった。時にノーガードで襲われるほどの、無残な負け戦だった。
帰還は昭和十九年一月一日。岡田さんの体重は三十数キロになっていた。商船で大分・佐伯に帰り着くと、ニューギニア組は憲兵に銃で見張られ、潜水艦で広島・呉へ、さらに夜行列車で佐世保に運ばれた。負け戦であることを、世間に漏らさないためだ。
「話せば殺すと言われちょりましたけ。戦後も、怖うて、しばらく話さなんだです。口にしだしたのは、昭和二十五年くらいになってからですか」
終戦後の昭和二十年十月、岡田さんは故郷の吾川郡吾北村に帰ってきた。会いたかった母も弟もいなかった。二人とも満州(中国東北部)で病死したと知ったのは、その一年後だった。
「母も弟も犬死にですら。あしらもニューギニアではいずり回って、だれもかれも死んで、なんじゃったですろうか」
■ □
七年前の夏、岡田さんは、ニューギニア・ラエの砲撃で死んだ上等兵曹の実家を、たまたま知った。戦地での様子を会って伝えたいと、ずっと捜していたのだった。
上等兵曹の妻は、その兵曹の弟さんと再婚し、香川で健在だった。会って顔を見ているうち、話すことができなくなった。
「血がポンプみたいに噴き出して、それでも『大砲に注意せよ』と言い残した兵曹さんです。奥さんは心臓もお悪いようでしたし、そんなむごい話、言えますもんか。結局、奥さんの夫の息子さんに話して、帰ってきました」
自分史を書きたいと思った。三年前のことだ。戦後、営林局を経て材木販売を手掛け、その後、不動産業に転じた。娘さんたちにも恵まれた。
「年がいきましてほら、こんなことがあったと、子どもに書き残したいと思うようになって。国の宣伝に乗ってはならん、人のあおりたてに乗ってはならんと。よくよく考えるようにと。忘れたり、(戦争で)人をあやめたりで、話したがらん人もおりますけね」
よさこい祭り本番の八月十一日、再び新聞社に出向いてきてくれた岡田さんは、「恥ずかしいもんですけんど」とおじぎをして、自分史のコピーを置いて帰っていった。炎天下、岡田さんを乗せた電車が走りだした。
【写真】ニューギニアから帰還して終戦。岡田さんの55回目の夏(高知市本町3丁目)
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