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「ハゲちょるので帽子をとってはならんと、娘に言われちょりまして。まことに失礼いたします」
高知市福井町の岡田浩揮さん(79)に「戦争のお話を」と頼むと、「家ではざわざわしますので」。真夏日の日中、妻の純子(あやこ)さん(75)を伴って、新聞社に出向いてきてくれた。
「まあ言や、敗残兵ですわ」。傍らの純子さんが時々目を伏せ、手で顔を覆って聞いている。でもすぐに穏やかな表情。二人は笑ったり、しんみりしたりしながら、話を進めた。
岡田さんはニューギニア戦線の生き残りだ。佐世保鎮守府第五特別陸戦隊司令部三千五百人の一員として海岸部のラエに駐留した。生きて戻ったのは二百九十三人だった。
東南部のポートモレスビーから飛んでくるB25を、日本兵は「殺し屋の定期便」と呼んだ。13ミリ機銃での応戦が済むと、必ず何人か死んでいた。
「25ミリ弾が頭に当たって、首がもげて死んでおる。戦っておる時は気がつかんのですわ。あとで、きょうも死んだなと」
ある夜、運命を分けた。「もし今夜、空襲で幕舎がやられたら、重要書類が灰になる」と、岡田さんはふと思ったのだという。沖縄出身の同年兵と二人で、幕舎から主だった書類を両手いっぱいに抱え、防空壕(ごう)に運び込んだ。その二、三秒後、すさまじいごう音が五回響いた。米軍が初めて使用した長距離砲だったらしい。
おそるおそる壕から顔を出すと、熱帯樹が焼け焦げ、ついさっきまで樹木を囲んでいた十五、十六人の兵士たちは、肉片になっていた。上等兵曹が一人、うめいている。右横腹に握りこぶしほどの穴が貫通し、脈打つたびに血が吹き出した。
「兵曹、大丈夫ですか」。防空壕の中に運んで寝かせると、新婚の妻を香川に残す兵曹は、「大砲には注意せよ」とだけ言い残し、間もなく息絶えた。「結構な人柄の方じゃったに。あわれなもんじゃったです」
米軍はどこに据えたのか、それ以降、長距離砲で襲ってきた。日本兵はそれに追われ、サラモア半島のジャングルを逃げた。それでも砲弾は降ってくる。谷川で水をくんでいると、今度は銃声が響き、三十人ほどが倒れた。
「人が踏み込めんようなジャングルですけ。そんなとこに日本からやってきてて、たまあるか、殺されとるのです。戦争をしとるのです。それを当時は、異常とも思わんのですけ」
部隊の生き残り約千人は、さらに逃げた。サラワケット峠(標高四、一〇〇メートル)を越え、山向こうのキアリに逃れるためだ。一週間分の食料はすぐに絶え、草木の根で飢えをしのぎ、三十九日かけて着いた山頂は、雪山だった。
「一生言うな。ばれたら即日死刑だ」。兵士たちはそう言う上官に従って、「菊の紋章」の付いた小銃の柄をたき火にした。それでも夜が明けると、大勢が死んでいた。
「天皇家の菊の紋章を焼いたからと、火にあたらんのです。ぬくもりゃえいに。それで朝には、凍死です。みんな笑ったような顔になりますな。時々、谷底でダンダン!! ああまた一人、死によったと。手りゅう弾で、自害です」
岡田さんは手りゅう弾二個を胸に抱く格好をして、「私もマラリアにかかった時、死ぬつもりでしたけ」と淡々と話す。
「みんなそういう教育を受けとりましたけ、怖うはなかったです。いろいろ考えたり、感じたりもいたしません」
岡田さんの話は続く。
【写真】「ジャングルん中で、隊にようついていかんですわ。だいぶ死にましたね、手りゅう弾で」と岡田さん。左は妻の純子さん(高知新聞社)
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