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昭和二十年八月十一日。朝早く、ガラス戸が激しくたたかれた。「ロシアが来るぞ」「日本は戦争に負けた」「早く逃げろ」。家の外は騒然としていた。
満蒙開拓団として十五年に旧ソ連国境近くの中国黒竜江省樺川県に入植した安芸市の一家。終戦当時十二歳の小原茂(しげ)さんは、十歳の妹、八歳の弟と「生き地獄をさまよった」日々をはっきりと覚えている。
入植は一家六人だった。翌年、母が病死。二十年三月には兄が応召され、四カ月後に戦病死。そして。八月十日、父、亀治さんが出兵。「抱き合って泣く三人を見ながら、父は顔をそむけ手を振って行きました。一銭もなく取り残されました。おとろしゅうて、よう寝んかった」。その恐怖の一夜が明けた途端、三人の逃避行が始まったのだ。
高知市北竹島町の自宅。ちゃぶ台の向こう側に座った茂さん(67)は、五十五年前の記憶をゆっくりたどる。手には小さなタオルを握りしめていた。
泣きわめく妹たちの背中にリュックを負わせて出発した。入植者の住む六地区の老人と女性、子どもばかりの集団は「アリの行列」のように昼も夜も歩き続けた。
どこから、いつ飛んでくるか分からない銃弾。その度に行列は乱された。右手に弟、その右に妹、三人が手を握る。その茂さんの耳元をヒュンと弾がかすめる。突然、真横を歩く子ども二人を背負った女性が見えなくなった。バタッ。血のりが広がる。だが振り向く人はいない。皆ただ前を見つめ、歩く。
食料も水もない。幼児や老人の数が次第に減っていく。雨が降れば馬のひづめ跡にたまった水をすくう。「赤い虫がいっぱい」。目をつぶって飲んだ。
松花江の支流を渡った時はひどかった。向こう岸はかすむほど遠い。両岸を渡した針金を握り、両足で水面をたたきながら進む。「助けてー!」。手がはずれて濁流に流される子ども。「息子と一緒に」と、流れに飛び込む母もいた。
「山の中も道ばたも、川の中にも、そのそばにも死人。目が開けられんかった。いつ殺されるか。いつ死ぬか。一生よう忘れん」
半月以上の放浪の末、方正県の日本人開拓本部にたどり着いた。茂さんたちは倉庫を家にしてその年の冬を越すのだが…。
話しながら、茂さんは小さなタオルで何度も目元をぬぐう。「涙を流さんとろうと思うても、出てくる。それが恥ずかしゅうて」。そうつぶやいて、またそっとタオルを目にあてた。
蓄えのある人は一人、一人と日本を目指した。しかし幼い三人はとどまるしかなかった。配給の食料は徐々に減る。病気になり、衰弱し、厳寒の大地には埋葬の穴さえ掘ることができない。凍りついた遺体が次々に野ざらしになった。氷が解け始めると、今度はカラスや犬が遺体を引きちぎる。避難所の周囲は遺体の頭や手足、そして異臭が満ちた。
二十一年春、三人は別々の中国人家庭に引き取られる。「知らないおじいさんが来て。売られたがでしょう」。避難所を出る時、周囲から掛けられた言葉をしっかり覚えている。「なんとかして生きておらな。命だけは残しなさい」
茂さんは三軒目に世話になった劉さん方の二男と結婚した。十四歳だった。
いま茂さんは、さまざまな集いで戦争を知らない世代へ語り掛ける。平成五年に永住帰国。子どもの安否を知らぬまま復員した父は他界していた。数年前には茂さんの体験が紙芝居にまとめられ、子どもたちにもこの体験を伝えている。「思い出したら何日も頭に残る。しんどい」
呼び寄せた家族、孫の一人が学校でいじめられたことがあった。言葉の壁、慣れない生活…。「せっかく帰ってきたのに。けんかはいかん」「僕は何もしていない」。戦争が生んだ「戦後の苦しみ」の一場面だ。「つらい時でした」。また目元をぬぐった。
茂さんはなぜ苦しい「語り」を続けるのだろう。
「私は若者に知ってほしい。お世話になっている、この静かな、立派な日本を守ってほしい」
中国、そしてそこでの体験には、どんな思いを抱いているのだろうか。
「中国の方は優しい。どの国も、えい人も悪い人もいる。これは自分の運命。うそはない。伝えたい」
中国の“優しさ”と“立派な”日本。茂さんが繰り返す言葉が胸に刺さった。
◇
昭和二十年八月十五日の終戦から五十五回目の夏を迎えた。語り継がれる戦争体験が「遠い歴史」のように受け止められる時代になりつつある。数少なくなった「語り部」は、それでも話し続ける。一方で、あえて口を開かない、また語ることをやめてしまった体験者もいる。彼らが夏を「語る」「語らない」思いは、どこにあるのだろうか。
【写真】「思い出すと、つらい。でも、この体験を若い人に知ってもらいたい」。紙芝居をじっとながめる小原茂さん(高知市北竹島町の自宅)
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