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第3部 「国体」あすの風 |
| 3.昭和39年 |
昭和39年は、言わずと知れた東京オリンピックの年だ。高度成長まっしぐらのわが国が、一つの頂点を極めた年だった。国中に五輪開催を喜び、選手を励ます声がわき上がり、一般のスポーツへの関心、理解も深まった。そんな象徴的な1964年はまた、国体にとっても忘れられない年だ。天皇杯の開催県獲得が常識となる、まさにスタートの年だった。
新潟国体報告書を見る。前後の開催県に比べて粗末なわら半紙なのは、国体終了5日後に襲った新潟地震(夏季大会は中止)の影響だろうが、内容も違う。新潟県以前の報告書に盛り込まれていないものがある。「選手強化対策」だ。取り組みに2ページ以上、割かれている。 綿密な4年計画の強化で、特に中学生に力を注いだあとがうかがえる。開催2年前の項には「運命を決する最大の山場として重点的、本格的強化が目標」とある。中央コーチ招へい、県外遠征、6次にわたる選手選考会…。本県も含め現在まで続く強化策の基本が詰まっている。「山口は0・4点差負け。250万県民のうちが下を行くわけにはいかない、という気です」と佐藤さん。北信越の大県を自任するプライドがあった。 その前年の山口の強化はどうだったのか。実は開催要項の急な変更で岡山県に続いて2年続きの中国地方国体。県教委指導主事だった平松寿人さんは「とにかく開会式を立派にやることが一番で『何がなんでも天皇杯を取る』って感じはなかった」。時間的余裕に乏しいこともあり、予算の多くは会場や道路の整備につぎ込まれたという。 天皇杯は東京とデッドヒート。陸上最後のリレーで1、2位が決まった際どさだった国体を振り返って、平松さんは「確かに悔しい思いもあったが、あの東京をあと一歩まで追いつめたということの満足感も強かった」。 では、天皇杯を獲得した新潟は―。報告書には記されていないが、ジュニア育成とともに天皇杯獲得の鍵になったのは、大量の教員採用だった。当時、国体にあった「教員の部」は花形部門だった。「直前の4月に引っ張ってきてね。輸入人事ですよ」と佐藤さん。県の強権だった。各学校に定員を無視した教員配置も行われたという。そして、国体後は長らく体育教師の採用が止まることになる。 もちろん、“悲願”達成は強化の成果、県一丸になった必死の努力があってこそだろう。ただ、全国14番目に県人口の多い新潟は決して競技力の低い県ではなかった。1949年の石川県から地元優勝を挟み、21年連続10位台をキープ。それが開催後6年目で途切れた。後は33年間、一度も10位台はない。 佐藤さんは言う。「ちょうど今年ですね。その時入った先生たちが定年を迎えます。これでやっと、“じゅ縛”が解けるかもしれませんね」 (高知国体取材班) 【写真】新潟国体開会式。3万5000人収容のスタンドは観客で埋め尽くされた。数万人規模の今以上に華美で壮大な式典演出もあり、国体はまさに国民の祭典だった(昭和39年6月6日、新潟県営陸上競技場) (2002年11月16日朝刊) |