高知で変わる 高知が変える  第1部 国体開催県の試み

                        ◆続き

  1.簡素化
 
 平成5年12月県議会。橋本大二郎知事は所信表明で「国体は全国規模の一大イベント。県民と一緒に招致し、成功に導きたい。県を挙げた運動として取り組んでいく」―。14年国体を想定した県招致委員会設置を示した。文部省(当時)、日本体育協会(日体協)とともに主催となる県が初めて開催へアクションをおこした。

橋本大二郎知事と帖佐寛章・日体協常務理事(右端)の会談。開催決定13カ月前に行われた異例の話し合いは、本県の国体簡素化“宣言”であった(平成10年6月10日・県庁知事室)  国体は全国9ブロックを巡回する。四国はその年の秋、香川、徳島共同開催の東四国国体を終えたばかり。昭和57年7月の四国四県体協会長会で出された愛媛、高知共同開催方針の結論は出ていなかったが、誘致運動は動き始めた。本県を全国にアピールする願ってもない機会であることに違いない。「半世紀に一度」の“錦の御旗”がちらついた。

 平成6年3月、四国体協会長会で14年国体の本県単独開催が決まった。同月末に日体協が開催内々定。県準備委員会立ち上げをへて、7年5月、競技会場地の決定。デモンストレーション競技も含め全53市町村に振り分けた。「国体を通じて地域住民のスポーツ活動の推進を図るため、県内各地に可能な限り分散する」。県民総参加型だ。

 9年7月、開催内定。同年9月、「よさこい高知国体」の愛称も決まった。県民ボランティアの中心になる推進リーダー委嘱が10月。タイムスケジュールに乗っ取り準備が進んでいくなか、宿舎不足、施設整備など多大な負担…。横たわる大きな課題も見えてきた。同時期、皮肉にも県の10年度当初予算が戦後初のマイナスになることが明らかになった。

 これまでの国体では日体協、国の「中央」が前例主義的に“押しつけた”基準に対し、「地方」がノーと言えない歴史があった。平成不況の真っただ中、国体への考え方も変わってきているはずなのに、実際に相当の覚悟で臨んだ開催県はなかった。橋本知事は考えた。これで良いのか? 正式決定を1年1カ月後に控えた10年6月10日。日体協の帖佐寛章常務理事が来高。異例のトップ会談が実現した。

 この会談、一言で言えば、第57回開催県・高知が日体協に対し、国体の「地方分権」を問う、だった。中央に対して物申すだった。

 橋本知事 「地方の財政、労力負担を軽減していく点では同じ考え」

 帖佐常務理事 「素直に話し合えて有意義」

 国体改革の総論について共通点が多かったことが、記者会見で明らかにされた。本県が「国体簡素化」の流れを確かなものにした。従来の方式に“くさび”を打ったのは、開催4年前だった。

    ◇

 よさこい高知国体は21日、夏季大会で開幕する。昭和55年6月、県体協の国体早期誘致決議を出発点に足かけ22年。この間、国体を取り巻く状況は大きく変わった。課題を抱えながら進んだ高知国体が“特別”な国体になることは間違いない。何が変わったのか。何を変えようとしたのか。検証する。

 (高知国体取材班)

 【写真】橋本大二郎知事と帖佐寛章・日体協常務理事(右端)の会談。開催決定13カ月前に行われた異例の話し合いは、本県の国体簡素化“宣言”であった(平成10年6月10日・県庁知事室)

(2002年9月10日朝刊)


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