山内一豊の時代に重なる 地震活動期の記憶として
高知県にたいへん関係の深いドラマがあると一所懸命に見る。NHK総合テレビで見る「功名が辻」がある。信長や秀吉を主としたドラマは多いが、一豊が登場することはめったになかった。山内一豊は、天文14(1545)年から慶長10年旧暦9月20日(1605年11月1日)までを生きた。信長の死後、秀吉の家臣として活躍し、天正13(1585)年には若狭国高浜城主、まもなく近江長浜城主となり、2万石を領した。1586年に起こった天正大地震によって一人娘の与祢(よね)姫が亡くなった。土佐守に転任したのは1603(慶長8)年3月25日のことである。
大河ドラマでは、第30回で、一豊は長浜城へ入城した。第31回「この世の悲しみ」が8月6日に放送され、その時、天正の大地震の震災で、長浜城は地響きをたてて崩れ落ち、瓦礫(がれき)の下から這(は)い出して、千代が娘の与祢を探す場面が描かれた。この原稿を書いている9月24日は第38回「関白切腹」である。秀次の死は1595年である。
西日本の慶長の地震活動期がこの一豊の一生に重なる。1586年の地震は、M(マグニチュード)7・8、死者多数と記録されている。美濃、伊勢、近江など広域に被害があった。
1596年9月4日、M7・0の大地震があり豊後地方に震災があった。前震が多発した後、大地震があった。その翌日、M7の大地震があり今度は畿内の大震災となった。京都では伏見城の天守が大破し、奈良、大阪、神戸でも被害が多かった。この地震活動期のピークは、1605年2月3日(慶長9年12月16日)、南海トラフのプレート境界に起こったM7・9の慶長地震であった。なお、東日本でも、1611年にM8・1の 三陸大地震があった。
その後、西日本では宝永の地震活動期、安政の地震活動期があって、昭和の地震活動期のピークが終戦前後にあった。1943年の鳥取地震(M7・2)の後には、1944(昭和19)年12月7日の東南海地震(M7・9)があり、静岡、愛知、三重などで合わせて死者行方不明1223名、住家全壊1万7599を記録した。津波が各地に襲来し、波高は熊野灘沿岸で六ないし8メートルに達した。
続いて翌年、1945(昭和20)年1月13日、M6・8の地震が愛知県南部に大震災をもたらせた。三河地震と呼ばれている。陸の直下の地震で被害が大きく、死者2306名となった。住家全壊は7221であった。
1946年12月21日に起こった南海地震(M8・0)は、もちろん高知県の人には忘れられない震災と大津波の被害をもたらせた。死者は1330名、家屋全壊は1万1591だった。1948年6月28日には、M7・1の福井地震があり、死者3769名と記録された。なお、この西日本の地震活動期のときにも、東日本では1933年の三陸大津波があり、1611年の地震に似ていると考えられる。
NHKの朝のドラマ「純情きらり」では、この地震活動期の岡崎が舞台であり、地元を襲った大震災がどのように描かれるかを注目していたが、何事も起こらずに時が過ぎた。実際は、東南海地震で岡崎の震度は5、死者9名、負傷者29名、三河地震では、死者29名、負傷者22名だった。
(2006年10月1日付朝刊掲載)
※筆者の了解を得てホームページにも掲載しています。