紀伊半島沖の地震 活動期の歴史たどる
2004年9月5日の紀伊半島沖の地震は、直後の専門家の見方を新聞などで見ていると、「前例がない」という見方が多かったように思う。科学者であっても、夜中に突然電話で取材されると、うっかり「前例がない」と発言して、あとで「しまった」と内心思っている人がいるにちがいない。本当は「前例を知らない」ということなのであろう。私の場合は、昭和の南海地震の数十年前にも似たような地震があったと思うというコメントをしたのだが、この「似たような」の意味は少し説明が必要だ。
問題は地震の起こった場所である。かなり東の方まで入れると、沈み込んだ太平洋プレートの中のやや深い地震が、1915年に起こっている。マグニチュード6・9で深さ200キロである。さらに今回の紀伊半島沖に近い所でも1917年にマグニチュード6・0の地震が起こっている。これらはやはり、今回の地震が、いずれ起こる次の南海地震をピークとする西日本の地震活動期の地震であるのと同じ意味で、前回の活動期の地震であると思っている。南海トラフを境として二つのプレートが押し合いをしているのだから、前回の南海地震から、南海地震の繰り返し期間の半分程度が過ぎれば、両方のプレートにストレスが貯まって来る。すると、昔から地震を繰り返している陸側では活断層が動き、どんどん潜り込んでいく海側のプレートでは新しい割れ目ができて大地震を起こす。だから陸側では予想できる活断層に起こるが、海側では起こってみないと場所の予想はできない。9月5日の地震は海側で起こった。
昭和のもう一つの前の活動期、つまり安政の東海、南海地震をピークとする活動期にも、やはり最初の段階で紀伊半島沖に地震が起こったということが、東京大学地震研究所の都司嘉宣さんたちによる報告でわかった。都司さんは古文書と津波のことを得意とする研究者である。
小さい津波を伴った地震が1808年12月4日に起こっているのを見つけてくわしく調べた。紀伊半島から四国にかけて12個所に地震と津波の記録があった。例えば、三重県の木本や和歌山県の田辺に津波の記載があり、高知県の種崎でも「浪入り、ことのほか大騒ぎ」という記録があった。津波の高さは1ないし2メートルで、各地の揺れは高知、徳島、大阪で震度3、鳥取、田辺、高松で震度4と推定された。
揺れと津波の分布から紀伊半島沖で南海トラフの近くにマグニチュード7・6の地震が起こったと推定された。今回の地震とよく似ている。
この地震の起こった1808年の頃(ころ)、西日本はすでに地震活動期だった。40年ほどの静穏期の後、1789年に阿波でマグニチュード7の地震、1799年加賀の地震と続き、1802年には畿内から名古屋の揺れで15名の死者を出す地震があった。1808年の紀伊半島沖の地震の後も多く、1819年に伊勢、美濃、近江などに死者多数の大地震、1830年の京都大地震、1847年善光寺地震、1854年7月伊賀上野地震と続いて、同年末の安政の東海、南海地震と続いた。9月5日の紀伊半島沖の地震は、今回もまた同じような地震活動期の歴史をたどっていることを示している地震と言えるだろう。
(2004年10月17日付朝刊掲載)
※筆者の了解を得てホームページにも掲載しています。