幕末の地震活動期 坂本龍馬の生涯とともに
京都ではドラマの影響で最近は新撰組の旗を街でよく見かける。高知出身の私は新撰組の旗を見ると坂本龍馬のことを思い浮かべる癖があり、なぜか新撰組の旗に反発を覚える癖があって、これはどうしようもない。
坂本龍馬は、1835(天保6)年から1867(慶応3)年までを生きた。1866年、龍馬の斡旋(あっせん)で、京都で木戸孝允と西郷隆盛が会い、薩長同盟が結ばれた。その後、山内豊信を説いて土佐藩の大政奉還を実現させたというような歴史もついでに思い浮かべる。
京都の近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺されたが、坂本龍馬は誕生日と命日が旧暦で同じ11月15日であるのも知られている。坂本龍馬も新撰組も、司馬遼太郎の小説で一段と知られるようになった。「竜馬がゆく」「菜の花の沖」「燃えよ剣」「新選組血風録」「翔ぶが如く」と、たくさんの小説に江戸末期から明治維新までが描かれる。京都を歩いているといろいろな場所に龍馬と新撰組の由来が見られる。
龍馬が生きた江戸末期も、西日本の地震活動期であった。その時代の西日本の地震のことを、あらためてここにまとめておいて、幕末の歴史を読むときに比べてみると、社会の様子がわかっておもしろいかもしれない。ここでは、京都を中心に、幕末の大地震による揺れを書いておくことにする。
まず、1819(文政2)年の近畿中部から愛知県にかけて揺れた、マグニチュード(M)7・3の地震である。琵琶湖の周辺、木曽川下流で被害が著しかった。近江八幡や彦根で家が壊れ、死者も多かった。
1830(天保元)年の京都および隣国に被害のあった地震は、M6・5で、京都での死者は280名と言われる。
1847年(弘化4)年には、M7・4の善光寺地震があり、死者は1万3000名にのぼった。善光寺御本尊開帳があり、全国からの参詣者が集まっていた。
近畿では、1854(安政元)年の夏にM7・3の伊賀上野地震が起こった。死者は1500名であった。6月12日ころから前震があり、15日1時前後に本震、7時前後に最大余震があったようだ。
これらの内陸地震が続いた後、南海トラフの巨大地震が起こった。1854(安政元)年、M8・4の安政東海地震があって、死者は3000名ほどあったと思われる。震害の最もひどかったのは沼津から天竜川河口に至る沿岸で、津波は房総から土佐の沿岸を襲った。下田では停泊中のロシア軍艦ディアナ号が沈没した。
この東海地震の32時間後に安政南海地震が発生した。津波の波高は串本で15メートル、また以前にも述べたように、高知では、久礼で16メートル、種崎で11メートルなどであった。被害を東海地震によるものと区別することはむつかしいが、潮ノ岬以西の津波の被害は、おおむね南海地震によるものと判断されている。
この後、西日本はしばらく静かで、次の活動期の始まりは、いきなりM8・0の内陸巨大地震、1891年の濃尾地震であった。
(2004年8月1日付朝刊掲載)
※筆者の了解を得てホームページにも掲載しています。