幕府を揺るがした南海地震 地盤沈下に大津波が襲来
昭和の南海地震は、繰り返し起こる南海地震の中では比較的小ぶりの方だったかもしれない。その前の安政の地震の方が大きく、さらにその前の宝永の方がもっと大きかった可能性があり、次の南海地震も昭和のそれよりは大きいかもしれない。参考のために、安政や宝永やさらにその前の慶長の南海地震のことを、宇佐美龍夫「新編日本被害地震総覧」を参照して少し紹介しておきたい。
江戸幕府は1603年から1867年まで、15代264年間続いた。その間に、これら3回の南海トラフの活動が、ときには同時多発した江戸の地震や富士山の噴火などの大規模な自然現象とともに江戸幕府に大きな影響を与えたのである。
1605年2月3日(慶長9年12月16日)の巨大地震は、二つの地震が続いて起こったものと考えられ、土佐でもたくさんの死者があった。津波の高さは阿波の鞆浦で約30メートル、宍喰で約6メートルという記録が見つかっている。
1707年10月28日(宝永4年10月4日)の地震は「宝永地震」と呼ばれ、日本の最大級の地震の一つである。この地震による激震地域、津波来襲地域は、1854年の安政東海地震と安政南海地震を併せたものによく似ている。二つの巨大地震がほとんど同時に起こったのかもしれない。その後、11月23日に富士山が大爆発して宝永火口ができた。全体で少なくとも死者2万、津波が紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐が最大であった。種崎では一木一草も残らなかった。室戸、串本、御前崎で土地が1ないし2メートル隆起し、高知市中西部では約20平方キロが最大2メートル沈下し、船で往来したという。
1854年12月24日(安政元年11月5日)の安政南海地震は安政東海地震の32時間後に発生し、近畿付近では二つの地震の被害をはっきりとは区別できない。被害地域は中部から九州に及ぶ。津波が大きく、波高は久礼で16メートル、種崎で11メートルなどであり、死者は数千であった。室戸、紀伊半島は南上がりの傾動を示し、室戸岬で1・2メートル隆起し、甲浦では1・2メートル沈下、高知市付近は約1メートル沈下し浸水した。
昭和の時にも、室戸は1・27メートル上昇し、須崎や甲浦では逆に約1メートル沈下し、高知市付近では田園15平方キロが海面下に没した。
このように、巨大地震が起こって、弱っている堤防などがあると強震動でそれが破壊され、高知市あたりは同時に地盤が沈下して、そこへ大津波がやってくるという筋書で防災対策を立てることが必要だと歴史の記録が示している。
1999年度に高知県が実施した「高知県津波防災アセスメント調査」では、県に予測される最大規模の津波を想定した。高知市はそれをもとに、水門を開いていた場合や閉じた場合について、津波による浸水域を予測した地図を作った。ここでは、安政の地震で、市全域が約1メートル沈下した場合を想定している。地震発生後30分ほどで津波の第一波が高知市に到着し、波の高さは最大8メートルになるという予測である。
(2002年12月1日付朝刊掲載)
※筆者の了解を得てホームページにも掲載しています。