2017.04.21 08:20

声ひろば 2017年4月21日、金曜日

1.ありがとう西川花祭り
【貞岡由子、89歳、農業、香南市】
 2016年は、風邪をこじらせて行くことができず大変残念でした。今年こそはと開花を待ち続け、4月に入って3回も訪れました。香南市香我美町の西川花祭りです。
 2015年より規模も拡大され、菜の花がすごく多く開花し、清らかな空気のせいか黄の色が透き通るようで、ハナモモや山桜の赤やピンクとのコントラストの何とすばらしかったことでしょうか。まさしく桃源郷でした。
 そのほか、子供たちを喜ばせる設備も加わり、入り口近くの広い菜の花畑にはジャンプ台が置かれ、力強い子供たちのジャンプに、また、中腹の満開の桜の下のすべり台では、元気な子供たちの喜びの声に胸がときめきました。
 坂道を頑張っているヨチヨチ歩きの幼児もたくさん見受けられ、花の中でのかわいさ、親御さんの笑顔に、私の心は自然と幸せの輪の中に溶け込んでいったのでした。売店もたくさんあり、懐かしい焼き芋屋さん、クッキーやみかんジャムの瓶詰など地場産品も売られており何だかうれしくなりました。
 この花祭りを通して、西川地区の皆さま方の過疎の地を活性化させようとする意欲と、団結心の底力を見せていただいた思いがしました。ほんとうに立派でした。この花祭りを訪れ、たくさんの幸せをいただきましたことを心より感謝いたします。

2.首を長くした桜の開花
【黒岩靖夫、75歳、農業、香南市】
 高知市の桜標本木は3月29日に開花宣言した。私ども西川花公園も3月18日、尾﨑知事にご出席いただき開園式を行ったが、10日間も開花しなかった。
 満開の桜の絵は盛りだけを見ても描けないという。花も葉もない枝をしっかり描いておく。それに花をのせていくのだと聞いた。いろいろと思いを巡らせていたら花が咲いた。
 花公園は約40度の斜面に下から菜の花、ハナモモ、ソメイヨシノ、山桜が同時に花開くと西川の桃源郷となる。今年もお客さまが1万人を超えた。
 やっと咲いた花に降り続く雨。それでもお客さまは途切れなかった。花も表情豊かに忖度(そんたく)なしで人々に感動を与えているように見えた。4月17日付高知新聞の記事「木のオーナーで活性化」は高知大生のアイデアを生かした。
 当日は木々の若葉がやさしく風にそよぎ、花公園の横を流れる小川のせせらぎが銀貨をばらまいたようにきらめいた。小径(こみち)は桜や花桃の花びらが幾重にも重なる絨毯(じゅうたん)のようで、植樹する人々には、その中を登っていただいた。
 ハナモモは不老長寿を与えるとされる。吉兆と人の幸せを根付かせたい。そして地域の茶の間(交流の場)として、ここに来ればみんなに出会える地域づくりを目指したい。

3.テープに残る「宝物」
【竹内隆志、62歳、社会保険労務士、高知市五台山】
 ここにオープンリールのテープがある。1970年代のものだ。大学生協のパッケージの裏に手書きで収録日と「ノブ&サム」と記されている。
 フォークソング同好会に所属した僕は、国産のギターで曲を作り歌っていた。当時学生ベンチャーの方の招きで、僕たちは有名なプロの歌や演奏を学内で何度か聴くことができた。
 ある日、19歳の僕は先輩に声をかけられ、あるプロの前座出演をさせてもらうことになった。先輩がメインボーカルで僕はリードギターとコーラス。
 真夏の強い日差しが当たる部室で汗だくになり、練習を重ねた。学生の姿がまばらな夏休みの校内。僕たちの歌声とギターの音だけが響いていた。
 当日、バイトでためたお金で買ったオープンリールで自分たちの演奏を収録した。あれから43年。テープから、若々しい僕たちの歌声とギターがよみがえる。
 その後、プロデビューされた先輩は十数年前にこの世を去った。そして僕は憧れていた舶来のギターを手に入れ、35年ぶりに当時のスタイルで歌いはじめた。
 今年の5月28日。再びチャンスが巡ってきた。高校生の頃ラジオで聞いていた茶木みやこさんの前座出演だ。それはきっと、僕の人生の宝物になるだろう。

4.食の記憶
【岡田節子、63歳、土佐市】
 やっと山菜が採れ始めて心弾ませています。例年だと3月下旬から忙しく動き回るのですが、今年は桜の開花が遅れたように春の芽吹きも遅かったようです。娘がイタドリ好きで子供の頃よく料理して食べさせましたが、彼女の5歳になる息子も大好きなので、私はわが家と娘一家のためにこの時季、時間をつくっては採りに出かけ冷凍保存しておきます。
 不思議なもので、この年齢になっても幼い頃に食べたもののことはよく覚えています。母が「カマヤキ」と呼んでいた今のホットケーキのようなものをおやつに作ってくれてうれしかったこと。塩をまぶしただけのおこげ交じりのおにぎりのおいしかったこと。小学校の給食のミルクのまずかったこと。その他にもたくさん。子供の頃のことはけっこう記憶に残っているものです。
 これは遊びや出会った人など食に限ったことではありませんが、特に食はごちそうでなくても誰とどういう状況でどんな時に食べたかということを含め、心と体の基本を形づくるものですから特に脳に刻み込まれているのかもしれません。
 春に高知を離れた人も大勢いますが、自然の恵み豊かな地で育った日々を時には思い出して、それぞれの歩みで進んでほしいと心から願っています。


《特集 ペギー葉山さん》

1.私にも青春そのもの
【那賀川恵子、63歳、主婦、徳島県小松島市】
 歌手のペギー葉山さんが亡くなられました。驚きを隠し切れない思いです。ペギーさんと聞けばやはり「南国土佐を後にして」。情感豊かに歌う声に、抑えきれぬ感情があふれてきます。
 徳島県民の私でさえそうだから、高知県民の方々にとっては言葉に言い尽くせない懐かしさ、切なさ、親しみ、万感の思いが込み上げていることでしょう。
 本来、ジャズ歌手であり、「南国土佐を後にして」の民謡調の曲を「自分の柄ではないので」と一度は拒まれていたそうです。それだけに、想定外の大ヒットにきっと戸惑われたのでは…。
 この有名な歌には数奇な運命が隠されていると、新聞で読みました。原曲は日中戦争のさなか、高知県出身者の部隊で歌われた望郷の歌だそうです。
 過酷な戦地に赴いていた兵隊さんが遠い異国の地で、故郷南国土佐の自然豊かな景観、力強い太平洋の海、おいしい郷土料理を思い描いていたのだと思えば胸が痛くなります。
 さらには、高度成長期に故郷を離れ集団就職で都会へと出て行った人々の心をも慰めたとのこと。親元を離れ友達と別れ寂しさの中、どこからか聞こえてくると慕情がかき立てられただろうな。
 私にとっても青春そのもの。懐かしくいとおしく思い出が駆け巡ります。

2.名曲通して知った高知
【豊岡徹、45歳、福祉施設職員、千葉県船橋市】
 歌手で名誉高知県人のペギー葉山さんが4月12日、83歳で亡くなられた。ヒット曲「南国土佐を後にして」は、高知の名を知らしめた一曲となっている。
 もともとは昭和33年、NHK高知放送局のテレビジョン放送開始を記念した公開放送でペギー葉山さんが歌ったもの。翌年にレコードが発売されると、ペギーさんの新境地を切り開くとともに、播磨屋橋や「坊さんかんざし」が全国に知られるようになった。
 実は「南国土佐を後にして」は鯨部隊の兵士が故郷・高知をしのぶために作った詩を音楽家の武政英策氏が採譜した。よさこい節を取り入れたメロディーが多くの人の心を打った。
 初めはジャズ以外の曲を歌うことに抵抗があったペギーさんだが、放送でこの歌が歌われるとたちまち大反響となり、「学生時代」などジャズ以外の曲にも挑戦した。
 ペギーさんの歌手人生を変えた「南国土佐を後にして」は高知県人にとっても、故郷を思い出す歌になっているようだ。ペギーさんはこの世にはいないが、この曲は永遠に歌い継がれていく。それは声を大きくして言える。

3.最高の観光大使消ゆ
【文野道景、67歳、高知市潮見台】
 高知県にとって本当に大事な人を、4月12日に亡くした。その人はペギー葉山さん。「南国土佐を後にして」はあまりにも有名で今更の感があるので、「ドレミの歌」について書きたい。
 最初は、この歌を英語の通りに訳そうと考えていたそうだが、途中から「そのままではこの曲の良さが出ない」と考え、歌詞は趣旨に沿ったご自分の創作に変更したのだ。
 英語だとドは「Doe」で、メスの鹿ちゃん。これじゃ分からないから日本語は「ドーナツ」にしよう。「レ」は「Ray」のお日様から降り注ぐ光。「レモン」なら子供も分かる。
 「ミ」は「Me」自分のこと。うーん「みんな」と大勢のほうが良い。「ファ」は「Far」遠い遠い道を走ること。「ファイト」なら皆知ってる。
 「ソ」は「Sew」の針と糸で縫いましょう。空しか思いつかないから「青い空」にしよう。「ラ」は「La」のその次に来る音。何だ、こんな簡単な作り方なの。「ラッパ」の方がわかるでしょ。「シ」は「Tea」。ジャムパンには紅茶が一番。最後は「幸せ」がまとまっていいでしょう。
 こんな感じで、翻訳の苦労話をあるテレビでご本人が語っていたのを思い出す。ペギーさん、これからも空の方で、高知県の行方を見守ってください。

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