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15年7月16日付・朝刊

可決強行に県内でも反対の声 国策優先「戦前に酷似」

国会前に渦巻く怒り

国会前に押し寄せたデモの人波

 「こんなことが許されるのか」「信じられない」「勝手に決めるな」―。安全保障関連法案が衆院特別委員会で可決された15日、国会前には怒りの声を上げる市民の波が押し寄せた。ある人はテレビの速報テロップを見て、ある人はインターネットの呼び掛けを見て。デモは夜遅くまで途切れず、その数は10万人に(参加団体の発表)。憲法を、国民を無視する政府でいいかという強い思いは、国会周辺だけでなく、高知県にも全国各地にも広がった。

 国会前では、採決が行われた昼すぎから人が多くなり、午後には全国から市民団体や労働組合のメンバーらが駆けつけ、座り込みやデモを行った。さらに日没が近づくに連れ、数は増え続け、午後6時には長い歩道を抗議の声が埋め尽くした。

 東京都葛飾区で育休中という女性(38)は昼すぎ、テレビで「可決」の速報テロップが流れるのを見て、思わず自宅から駆けつけたという。

 「大勢の憲法学者や法律家が違憲と言っていたから、誰かが止めるだろうと思ってたんです。まさか通すなんて。信じられない。将来、子どもが『あの時、お母さんは何をしてたの?』と言われたら、どう答えるんだろう。そう思い、初めて参加しました」

 今までとは違ったデモのスタイルで注目を集めている大学生らのグループ「SEALDs(シールズ)」は午後6時半からのデモをネットで事前に呼び掛けており、国会前では若者の姿が目立った。SEALDsの中心メンバーで明治学院大学4年の奥田愛基さん(23)は「憲法を無視するということは国民を無視すること。どうせ終わったとかどうしようもないと言っている場合じゃない」と声を張り上げた。

 ネットを見て国会前に来たという都内の男子大学生(21)は「国民を納得させようという姿勢すら見せず、平然と決めていく政治の姿は本当に異常。これを許したら、もう取り返しがつかない気がして」。

 野党議員や政治学者らも次々にマイクを握る。「安倍政権の暴走を止めよう」「戦争法案今すぐ廃案」―。

 日がすっかり落ちると、国会周辺は身動きもできないほどの混雑になった。抗議は怒号のような叫び声になって響く。

 後から後から人が押し寄せる中で、都内に住むデザイナーの阿部つよしさん(41)は自分に言い聞かせるように話した。

 「国の在り方を根本から変える法案をこんなこそくなやり方で決めて良いのか。この国の政治は最悪の状況に入った。それでも一人一人が声を上げるしかない」

【写真】「勝手に決めるな!」「戦争法案反対!」。国会前に押し寄せたデモの人波は夜遅くまで途切れなかった(15日午後7時半ごろ)


国策の優先「戦前に酷似」 自衛官30年の西土佐村の武田さんに聞く

満州へ強制入植 逃避行で家族失う

「憲法は大事」痛感

西土佐村の武田さん  「政府のやり方が(戦前の)国策の雰囲気に似とる」―。高知県四万十市西土佐西ケ方に住む武田邦徳さん(86)は15日、そんな思いで強行採決のニュースを見詰めていた。旧満州(中国東北部)への強制的な入植、そこで家族を失い、引き揚げ。戦後は自衛隊員として約30年間、国防の世界に身を投じ、自衛隊活動の変容を肌で感じてきた。いま、「戦争を知っている人間なら集団的自衛権の話は戦争を思い起こす」と言う。

 武田さんには忘れられない風景がある。

 1944年ごろ、当時住んでいた旧高知県幡多郡江川崎村の集会所で、村長や役場の職員が住民に満州行きを勧めていた。わらぶき屋根の平屋の集会所に集まった住民は40人ほど。当時14歳だった武田さんは広間に入らず、炊事場から大人たちの様子を眺めていた。

 「おまえら、偉そうなこと言うたち、いかんのやぞ」。村長はそう言ったという。

 武田さんが話す。

 「嫌でも満州に行かな、分村はできんぞ、という意味。優しい村長でしたけんど、強制的に行かされると。この言葉だけはよう覚えとります」

 江川崎村から満州国へ渡った人々の多くは、田畑を持たない農家だったという。その満州国で産業開発5カ年計画を主導していたのが、安倍首相の祖父の岸信介元首相だ。

 1942年以降、旧江川崎村からは「分村」という名の国策で約430人が開拓団として入植した。敗戦後の混乱や逃避行、収容所生活などによって約270人が命を落としている。

 「あのとき…」と武田さんは振り返る。

 「田畑持っている人は満州へ行かんでええから、村長の顔を真っすぐ見よう。田畑ない人は(満州行きの)指名があると分かっているから、うつむいて座っとった」

 1944年5月、武田さんは家族8人で満州へ渡った。敗戦から約1年後に郷里へ戻るまでに父や母、弟、妹の6人が病気などで亡くなった。

  ■  ■  

 身寄りのなくなった武田さんは引き揚げ後の1950年8月、「食っていくため」に発足したばかりの警察予備隊に入隊し、福岡市に派遣される。

 直前の1950年6月には対岸の朝鮮半島で戦争が始まっていた。福岡市の板付基地からは米軍機が半島に向け連日飛び立っていた。

 「北朝鮮が韓国の釜山まで攻めてきとるときやった。戦争は目の前。日本まで攻めてきたら私らの出番やなと」。離着陸を繰り返す軍用機の音で夜も眠れなかったという。

 「でも、私らが外国で戦争することはないと。憲法があるから大丈夫、という思いやった。そげに総理大臣が偉くても、憲法を変えることはできんろと」

 その後、警察予備隊は保安隊と名称を変えて、1954年から自衛隊になった。武田さんは香川県善通寺市や名古屋市で約20年間、人事担当を務めた。

 「自衛隊におったけんど、ずっと『戦争だけはしたらいけん』という思い。仲間も同じ気持ちやった」

  ■  ■  

 武田さんは50歳の定年後、旧西土佐村に戻った。妻を亡くし、今は1人で暮らす。

 安保関連法案のニュースを見ると、「身の毛がよだつ」と言う。幼少のころ、炊事場で聞いた「国策」と重なるからだ。

 「『俺らの言うことを聞け』と。何て言うか、毒持ったマムシがちょろちょろ動きよる感じ。この法律はいつ噛みつくか分からん。油断せられん」

 「やっぱり憲法は守ってほしい。犠牲者が出てからでは取り返しがつかん。鉄砲の引き金だけは引いてほしくない。平和ほどありがたいものは、ないけんね」

【写真】「戦争起こした時代に似てきよる」。安保関連法案が衆院特別委員会で可決されたニュースを見て話す武田邦徳さん(高知県四万十市西土佐西ケ方)


 

 

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