▼下 国に向けてきた背中
本社政治部長 須賀 仁嗣
「改革」という言葉を、ここでは〈県庁や県職員の仕事の仕方や意識を変える〉という意味で使わない。〈地方が自立できる方向へ国と地方の在り方を変える〉という意味でとらえる。
それで言えば、「改革派」として全国に先駆けた橋本大二郎知事は、最初から改革派然としていたわけではなかった。
当初の外向きの仕事は「広告塔として高知を売り出す」。今の東国原英夫・宮崎県知事と同じだったし、内政面では国からカネを引っ張り込み、本県の宿命である「後進性からの脱却」を図る路線に乗っていた。現に一期目の政策で目に付いたのも「高知―島根間のミニ新幹線構想の実現」など社会基盤整備に関する項目だった。
この流れは膨れ上がった借金の重みで緊縮財政へと切り替える一九九八年度ごろまで続く。
「この貧乏県で全国に先駆けて自立路線を走る必要はない。地方分権などと言っても、制度が変わらない以上、無理だ。現実を見据えて国の事業を呼び込んでくるのがわれわれの仕事」
二期目途中まで知事を支えた山本卓元副知事の信念とも言える考え方だが、これを現実的とみる目は今なお県内に多い。
その山本元副知事が橋本知事に対する不満として口にしていたのは、中央官僚を受け入れる割愛人事の在り方だった。
橋本知事は県庁人事に限らず、審議会や検討委員会さらには県商品計画機構など多方面に県外からマンパワーの移入を図っている。庁内ではそれまで総務部長と財政課長に限定されていた受け入れポストを緩やかに拡大していった。
「使う分にはいい」。これが中央官僚に対する知事の考え方なのだろう。だが、その官僚が首長の座に納まろうとすることには、たちまち抵抗感を示す。徳島県の出直し知事選で、それまで部長として前職を支えていた飯泉嘉門現知事が出馬を決めた時、橋本知事は「役人のあるべき姿ではない」と気色ばんでいる。
この間、首相に上り詰めた知事の兄、龍太郎氏の存在が県政にどこまでプラスに作用したかはつかみにくい。橋本兄弟には他者には分かりにくい“間合い”があり、実益で互いに貢献するというのは好まないタイプ。橋本知事誕生で兄の威光に期待した向きには期待外れだったろう。
それよりも、龍太郎氏が参院選敗退を受けて首相の座を下りた九八年前後は、地方分権をめぐる動きが重大局面を迎えていた。分権推進委員会による勧告は、実現可能な着地点を求めた橋本首相によって中央官庁寄りに弱められ、結局「橋本行革」は国と地方の役割を根っこから見直すことなく、省庁再編を最優先して終わった。
橋本知事は九八年、岩手、宮城、三重の各県知事らとともに「地域から変わる日本」推進会議を立ち上げる。改革派知事という呼び名が使われだしたのはこのころからで、既成の枠組みに否定的な目を持ち、行財政運営の在り方を見直す一方、国にも政策面から批判や注文を投げ掛けていく。
その後、宮城の浅野史郎知事の三期を最長に一人また一人と知事職を離れていった。仮に橋本知事が三期限りでの引退を表明していれば、その後に選挙資金疑惑も浮上しなかったはずだが、果たしてどうだったか。
橋本知事は“因縁の関係”といわれ知事選で二度相まみえた松尾徹人前高知市長に対して、絶えずその背中の向こう側に出身官庁(旧自治省)、この国を実質的に統治してきた官僚機構をとらえていたようにみえる。知事は今年に入っても「(松尾氏が)出るならわたしは引かない」と近い筋に語っている。
官僚出身者は改革派知事の中にもいた。松尾氏には心外だろうが、知事の身構え方からは「地方の自立を阻んできた国には与(くみ)しない」とでもいうような強固な意志が読み取れる。地方分権での「兄の落とし物」を見つけたかのように、それ以降も国に背を向けていった。
【写真】「4期限り」を表明する橋本知事。国にはその背を向け続けてきた
ニーズを見据えた“伝道師”
橋本知事のかたくななまでの国に対する姿勢は、その是非を含めて新知事にも投げ掛けられるだろうが、国に背を向けるだけでは自立できない。
土佐経済同友会の代表幹事などを務めた横田英毅氏がしばしば引用する「ニーズ(必要)とウォンツ(欲求)」の論法が、そこに一つの示唆を与える。
〈空腹の人に魚を与えるのはウォンツを満たすこと。釣りの仕方を教えるのがニーズを満たすこと〉
これに沿えば、橋本県政は高知工科大開設などで懸命にニーズに応えようとしてきたと言える。今は就職・雇用難などにあえぐ県民のウォンツを満たせていないが、それらには国の経済政策や遠隔地ゆえの条件不利という要因もある。だから自立にはニーズを満たすことが重要になる。
同時に土佐人の自尊心は、経済的欲求を満たすだけでも回復しない。その面で、高知国体の成功は特筆すべきことだった。よさこいに象徴される土佐人のエネルギーが幾重もの垣根を越え、誇るべき「身の丈国体」に昇華したと言っていい。
その方向へと導いた橋本知事は、さながら「伝道師」のように一般県民一人一人にタネを撒(ま)いてきた。いわば底地を耕す作業のように。知事自身の言葉でいえば「結び目を増やす」こと。その中で遠来の知事は「土佐」を体感し続けてきたように思える。これほど数多くの一般県民と向き合った知事はまず全国どこにもいないだろう。
決着まで長い年月を要した日高産廃問題。最後は住民投票で決着した。統治者側には厄介な民主主義の道具と映る住民投票だが、橋本知事の目には間違いなく、それが有用な道具と映っているはずだ。
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橋本知事にはたぶんに、龍馬的なところがあったと思う。自らは思想家ではないが、琴線に触れる教示は真綿のように吸収していく。それが固定観念を持たない「融通無碍(ゆうずうむげ)」ということか。
ただ、具体的な道筋を組み立てる「戦略家」や共感者を増やす「通訳者」には恵まれなかった。知事の人を見る目のなさも指摘されてきたが、総合的に見て新しいものを効率よく大胆に組み上げる仕事はうまくいったとは言えない。
無党派、改革派知事による「社会実験」には光も影もある。変革期に咲いたあだ花に終わる可能性もないではないが、「特定個人」の排除などはなれ合った人間関係をつくり上げている地元の人間にはまず不可能だった。
国のかたちはなお堅牢(けんろう)だが、革新性を帯びていたという意味では、戦後最も土佐人らしい知事だったとも言える。
今は亡き漫画家の青柳裕介さんが橋本県政誕生に際して発していた声を、もう一度書き起こしておこう。
「橋本さんの出馬で地元のわれわれは“高知県民とは何か”を問われ、互いによく議論できた。だから結果がどうなっても、橋本さんに感謝しなければならないだろう」
=「政治に訊け」おわり=
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